時は1692年。妻に逃げられた(爆)トスカーナ大公コジモ3世(50歳)は、一人寂しく、既に成人した3人の子供達から、跡継ぎとなる孫誕生の朗報を首を長くして待っていました(結局、誰にも子供は生まれず、彼らの代でメディチ家が途絶えることとなってしまうのです)。
当時、フィレンツェの宮廷は、ドイツ、イギリス、デンマーク、ノルウェーなどの北ヨーロッパ諸国の宮廷と密接な関係を保っていました。この年、若きデンマーク皇太子フレデリク(後のデンマーク国王フレデリク4世)がトスカーナを訪問し、フィレンツェのコルソ通りにあったサルヴィアーティ邸(ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの住居だったところです)に滞在します。
この滞在中にフレデリクはルッカを訪れます。イタリア語を理解しなかったフレデリクの為に、ルッカ人の女性フランス語通訳が用意され、通訳を務めたのは活発で美しかったマリア・マッダレーナ・トレンタ(当時22歳)。もちろん、お年頃の皇太子が彼女の魅力に気付かないわけはなく、2人は一気に恋に落ちます。マリアの婚約者は失望の後、彼女との婚約を解消してしまいます。
フレデリクはマリアを愛人にする意思はなく、かなり真剣なお付き合いだったようです。それでも、彼の帰国と共に2人の幸せな時間は終わり、フレデリクはマリアをルッカに残してデンマークへ戻ってしまいます。別れの際、彼はマリアに
"ADDIO" (アッディーオ=永遠のお別れの時に使う別れの言葉)ではなく、
"ARRIVEDERCI"(アリヴェデールチ=「また会う日まで」)と言います(←この優柔不断な優しさが罪なんだよなあ・涙)
その後、皇太子からの便りは1通も届かないのですが、それでもマリアは、根気強く彼からの手紙をルッカで待ち続けます。何件かあったルッカの貴族達からの求婚も断り、しばしばルッカの城壁に上がり、皇太子からの便りを届ける使いの到着を夢見ながら、3年間辛抱強く待ちます。
それでもとうとう、愛する人に忘れられてしまったことを確信したマリアは、怒りもせず、泣きもせず、黙ってフィレンツェのボルゴ・ピンティ通りにあったサンタ・マリア・マッダレーナ・デ・パッツィ修道院に入り、修道女スオール・テレーザとなります。
所が、フレデリクはデンマークに戻っても、ルッカの娘のことを忘れてはいなかったのでした。ある日、自分の肖像画のミニアチュールを描かせ、マリアへと贈ります。ミニアチュールは修道院へ届きます(こんなことしても、マリアを苦しめるだけなのですけれどねえ・涙)。マリアは、ミニアチュールに十字架を添えて、デンマークへと送り返すのです。戻ってきたミニアチュールと十字架を受け取ったフレデリクは、送り元が修道院であったことから、やっと事態を理解します(←遅すぎ)。
2度の結婚を経たものの、幸せではなかったフレデリクは1709年(当時36歳)に昔の思い出を辿り、再びフィレンツェを訪れます。
この時、滞在先として希望したのが前回にも滞在したコルソ通りのサルヴィアーティ邸でした。実は、コルソ通りと修道院があったボルゴ・ピンティ通りはとても近いのです(現在のスーパースタンダの近くですね)。
フレデリクは側近を通じて、修道院長へマリアとの面会を申し入れます。勿論、一国の国王の望みであっても、修道女との面会は許されるはずがありません。結局、フレデリクはコジモ3世を通じて面会の許可を得ることとなります。但し、鉄格子越しで、立会人として修道女が1人付くという条件です。
1709年3月22日、午後15時30分(←細かすぎ・笑)、フレデリックは修道院を訪れます。暗い修道院の一室で、金網越しに修道女姿のマリアが現れます。特例として、顔のベールを上げることが許され、フレデリクがルッカで出会った娘の白い顔が現れます。2人は終始フランス語で会話をしたため、立会いの修道女は内容を理解することが出来なかったそうです。
2時間に渡る二人の面会が終わると、修道院の外には野次馬が沢山集まっていたそうです。修道院を出たフレデリクは、そんな人だかりも気にせずに、号泣するのでした。
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