カテゴリ:フィレンツェ小話( 43 )

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時代はコジモ2世の代へとちょっと遡ります。1500年、1600年代は科学、医学の分野が大きく発達した時代ですよね。天文学者ガリレオ・ガリレイがピサ出身ということは皆さんも良くご存知だと思います。
ガリレオは、ピサ大学、そしてパドヴァ大学で教鞭を取ります。父親が亡くなった後、残った家族を安月給で支えるなどかなりの苦労をしながらも、物理の分野で様々な成果を得ます。
当時のフィレンツェは、フェルディナンド1世の未亡人クリスティーナ・ディ・ロレーナ(画像下左)と息子コジモ2世(画像下右)の時代でした。フランス王妃カテリーナ・デイ・メディチの孫であり、カテリーナ譲りの自然科学に対する興味を大いに持っていたクリスティーナは、コジモ2世の家庭教師としてガリレオを任命します。

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コジモ2世はトスカーナ大公に即位するとすぐにガリレオをフィレンツェに呼び寄せます。当時、メディチ家の新しい別荘であったポッジョ・インペリアーレのすぐ近くにある、ヴィッラ・ディ・アルチェートリ(ミケランジェロ広場よりもヴェッキオ橋寄りの丘の上です)をガリレオに与え(太っ腹っ!)、「トスカーナ大公付き哲学者」として月々の給料も与え、ガリレオが研究活動に専念できるよう援助します。フィレンツェに移住する少し前に、ガリレオは発見した木星の衛星を"Stellate Mediceae"(メディチの星)と名づけています。
この時期、フィレンツェでガリレオはオランダ製のcanocchiale(望遠鏡)を改良します。ガリレオの数々の発見は、フィレンツェの夜空で天体観測をした成果なんですね。きっと、ガリレオは何か発見があると一番先に、コジモ2世や息子のフェルディナンド2世にそれを見せていたのでしょうね。今もそうですが、夜になると静かなフィレンツェの南側の丘の上で、空気が今よりもさらに綺麗だった当時は、素晴らしい星空を眺めることが出来たんでしょうね。それまで信じられていたように地球が万能の中心ではなく、実は太陽系の小さな惑星の1つでしかないことを知ったのも、メディチ家の人々が最初だったのかもしれません。

さて、ガリレオの生涯のエピソードの中では、ローマ教皇庁との対立が有名ですが、意外とコレにはトスカーナ大公が絡んでいたのでした。

その続きはまた次回・・・

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by lacasamia3 | 2008-10-12 05:10 | フィレンツェ小話 | Comments(10)
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コジモ二世が30歳で亡くなった後、クリスティーナ・ディ・ロレーナとマリア・マッダレーナ・ダウストリアの嫁姑コンビは贅沢三昧を続け、女性ならではの(汗)外交を行います。


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f0106597_1202875.jpgコジモ二世にはクラウディア(画像左)という妹がいました。彼女は、ウルビーノ大公フェデリコ・デッラローヴェレと結婚します。多くの愛人を囲い、正妻であるクラウディアを愛人達と同じ邸宅に住まわせるなど、フェデリコの余りにひどい振る舞いに、クラウディアは生まれたばかりの娘を連れてペーザロへ逃げてしまいます。その直後、フェデリコは荒れた生活がたたり、若くしてなくなってしまいます。残されたのは、クラウディアと80歳の先代のウルビーノ公、そして幼いヴィットーリアでした。クラウディアはヴィットーリアとフィレンツェのクロチェッタ修道院に身を寄せます。
2年後に、彼女は北イタリアでさっさと再婚をしてしまい、ヴィットーリアはそのままフィレンツェの修道院で育てられます。
そこで、嫁姑コンビに、あるアイデアが浮かぶのです。ウルビーノ公国の第一継承権を持つヴィットーリアと、息子のフェルディナンドが結婚をすれば、ウルビーノ公国もトスカーナの支配下に収まるというもの。(←かなり無理がありますが・汗)

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画像左: フェルディナンド2世
画像右: ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ(お子様サイズの大公夫人の冠を載せています。)

婚約の儀式が行われた時、フェルディナンドは13歳、ヴィットーリアはなんと19ヶ月でした。その後、約10年間、ヴィットーリアは修道院で育ち、15歳の時に正式にフェルディナンド2世と結婚します。

祖父にあたる先代のウルビーノ公とも、彼の死後、完全にウルビーノ公国がトスカーナ公国の支配下に渡るという契約を結び、嫁姑コンビの計画は順調に進んでいるように見えますが、ここで思わぬ落とし穴が・・・


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またまた、こういうときに出現するローマ教皇(笑)。
1621年に新しいローマ教皇として、フィレンツェ出身のマッフェーオ・バルベリーニがウルバヌス8世として選出されます。
ダンテの時代にもその名を残す、フィレンツェの歴史ある家系バルベリーニ家の出身であったウルバヌス8世は、常にメディチ家にライバル意識を持っていたようで、その後、ウルバヌス8世が亡くなるまでの20年間、トスカーナ大公とローマ教皇の長い確執が続くのでした。
ウルバヌス8世は即位後、すぐにウルビーノ公国の継承権はローマ教会(バチカン)にあると主張します。「国の正式な継承者が途絶えた場合、国は教会に接収される」という決まりがあったんでしょうかねえ。ウルバヌス8世は、ヴィットーリアの継承権を認めず、ウルビーノ公国とトスカーナ公国の間で結ばれた契約も無視します。
度重なる、フェルディナンド2世の交渉も虚しく、結局、ウルビーノ公国はバチカンに接収されてしまいます。
「不動産」はバチカンのものになったものの、パラッツォ・ドゥカーレ(大公邸)にあった絵画や家具、宝石など移動できる資産は、ヴィットーリアが相続します。
その中の一部が・・・

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ピエロ・デッラ・フランチェスカ作 1470年頃
「ウルビーノ公夫妻の肖像」
 フィレンツェ ウフィッツィ美術館蔵
ルネサンスの傑作ですよね。この絵をウフィッツィ美術館で鑑賞する度に、勿論素晴らしい色彩やプロフィールの形の遊び心に感動するのですが、また、背後のウルビーノの風景をフィレンツェのウフィッツィ美術館で見ることに違和感を覚えたりしていました。
この絵がウフィッツィ美術館に展示されているのには、こんな訳があったんですね。

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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 1538年
「ウルビーノのヴィーナス」
 フィレンツェ ウフィッツィ美術館蔵
画面を左右半分に分けて、女性の白い上半身を余計に引き立たせているというところが何とも斬新な作品です。奥には女中が片付け物をしているし、ベッドの上には犬がいるし・・・。ヴィーナスという作品名で呼ばれているものの、ヴィーナスではなくて実際の女性に見えます。


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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 1538年
「エレオノーラ・ゴンザーガの肖像」
 フィレンツェ ウフィッツィ美術館蔵
同じく、ヴィットーリアが相続し、フィレンツェに持ってきた絵画です。マントヴァのゴンザーガ家からウルビーノにお嫁入りした大公夫人です。左横に寝ている犬がヴィーナスの右横にいる犬と同じ!ティツィアーノの飼い犬だったんですかねえ?

またウフィッツィ美術館に行きたくなりました(笑)。

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by lacasamia3 | 2008-09-28 02:03 | フィレンツェ小話 | Comments(8)
コジモ1世の息子として々の大事業を成し遂げ、メディチ家のみならずトスカーナ地方全体に富をもたらした人物、フェルディナンド1世は、1609年に60歳で亡くなります。若い頃から通風を病んでいたものの(メディチ家の当主は殆どがこの持病を持っていたんですよね)、公式行事などの「お食事の部」は出来るだけ参加せずに粗食を貫いたそうです(笑)。この時代の人にとっては、結構長生きをした方でしょうね。


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亡くなる1年前の1608年に、息子コジモ2世とオーストリア大公カール2世の娘マリア・マッダレーナ・ダウストリアの婚礼が行われます。フランス王妃となったマリア・ディ・メディチ、オーストリア皇帝の妹と結婚するコジモ2世と、数々の政略結婚で行われるフェルディナンド1世の外交政策(汗)。

さて、フェルディナンド1世の死後、残されたのは未亡人となったクリスティーナ・ディ・ロレーナ(当時44歳)、コジモ2世(当時19歳)、マリア・マッダレーナ(当時19歳)。
コジモ2世は「一国の王が自分の事業を行うことは恥ずべきことだ」と、長い歴史を持つメディチ家の銀行事業を停止してしまいます。一方、ピッティ宮を大幅に増築し、祖父のコジモ1世の代から始まったフィレンツェ宮廷をピッティ宮にて大きく拡張します。ガリレオ・ガリレイを庇護した人物としても有名ですが、それはまた後程、お話しますね。

1614年、コジモ2世(当時24歳)は、重病にかかり、その後亡くなるまでの7年間の長い闘病生活に入ります。その間、フィレンツェの統治権を息子のフェルディナンド(当時9歳、後のフェルディナンド2世))に譲り、摂政として母親のクリスティーナ・ディ・ロレーナと妻のマリア・マッダレーナを立てるのです。


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画像左: 姑クリスティーナ・ディ・ロレーナ
画像右: 嫁マリア・マッダレーナ・ダウストリア

ビシビシッと火花が飛び散っています(汗)。
クリスティーナはフランス王家の出身、マリア・マッダレーナはハプスブルグ家の出身であるために、フィレンツェのピッティ宮殿を舞台に、フランス対オーストリアの激しい家庭内戦争が繰り広げられるのでした。

コジモ1世は、「二人、力を合わせてトスカーナを統治して欲しい」と思っていたようですが・・・・(う~ん)。
どちらも、やんごとなき姫君達なので(笑)、政治には余り興味を示さず公式行事、宮廷のしきたりなどが大好きで膨大な数の貴婦人、使用人が雇われたそうです。フィレンツェの、ミケランジェロ広場側の丘の上に、Villa del Poggio Imperiale(ヴィッラ・デル・ポッジョ・インペリアーレ)と呼ばれる邸宅があります。「Imperiale=皇帝の」という名前が付けられたのは、神聖ローマ皇帝の姪であるマリア・マッダレーナのために改装されたからなんですね。

常に対立していた嫁と姑ですが、金銭感覚という点ではかなり共通点があったようで・・・

コジモ2世は父親から譲り受けた膨大な財産(金貨+宝石など)を保管した宝箱を、ヴェッキオ橋の上の丘にあるベルベデーレ要塞の地下に隠し持っていました。
彼は遺言で「この箱は、災害が起こった際の民への救援金として、または、家族の姫が結婚をする場合の持参金のために必要な場合以外は決して開けてはならない」という遺言を残します。

所が、コジモ2世の死後、二人はコッソリとこの宝箱を開けてしまい、残らず使ってしまうのでした。

宝箱を前にして、
「お義母様、開けてしまいましょうか?」(嫁)
「そうねえ、残しておいてもしょうがないわよね」(姑)

なんて会話をしていたんでしょうね(笑)。


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最後に、家族の肖像。
(左)マリア・マッダレーナ・ダウストリア、(中央)コジモ2世、(右)息子のフェルディナンド(後のフェルディナンド2世)。この肖像画は、フィレンツェのウフィッツィ美術館に保管されています。

1621年にコジモ2世がなくなった当時、フェルディナンドは11歳のはず。フェルディナンド、11歳でもうヒゲが生えている!コジモ2世も、甲冑姿ですが、う~んこの時期にはもう既に立っていられない程衰弱していたのではと思います。実際に、戦を経験したこともないんじゃないかな?

さて、嫁姑コンビは、さらにある政略結婚を企みます。
その話はまた後日・・・

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by lacasamia3 | 2008-09-18 17:20 | フィレンツェ小話 | Comments(4)
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この記事は、より見やすく編集しなおしてメインサイト、フィレンツェ情報ラ・カーサ・ミーアの情報ページフィレンツェ見所案内 サンティッシマ・アヌンツィアータ広場 後編で地図付きで掲載しています。

他にもフィレンツェ情報を沢山掲載していますので、宜しかったらご覧下さい。


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by lacasamia3 | 2008-09-10 20:39 | フィレンツェ小話 | Comments(12)
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この記事は、より見やすく編集しなおしてメインサイト、フィレンツェ情報ラ・カーサ・ミーアの情報ページフィレンツェ見所案内 サンティッシマ・アヌンツィアータ広場 前編で地図付きで掲載しています。

他にもフィレンツェ情報を沢山掲載していますので、宜しかったらご覧下さい。
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by lacasamia3 | 2008-09-10 00:59 | フィレンツェ小話 | Comments(12)
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再び、コジモ大公の次の世代、フランチェスコ1世(とビアンカ・カペッロ)の死後、トスカーナ大公となったフェルディナンド1世に話を戻します。
フェルディナンドは、マレンマ地方の農耕開拓、リヴォルノの港町としての発展、サラセン人や海賊により荒らされていた地中海の海運の統治(それによる東方との貿易の活発化)、などに成功し、トスカーナに多くの富をもたらします。
フランス王家との結びつきを図り、自らもフランス王妃カテリーナ・ディ・メディチの孫娘と結婚しますが、更にある縁談を企画します。


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故フランチェスコ1世と故ジョヴァンナ・ダウストリア(フランチェスコの先妻)の間には、成人した息子は居なかったものの、4人の娘がいました。フェルディナンドは、フランチェスコ1世の娘マリア(1573-1642)とバツイチだったフランス国王アンリ4世(先妻はカテリーナ・デイ・メディチの娘にあたる王妃マルゴ)結婚を企てます。イタリア語読みでは、マリア・デ・メディチですが、日本では、フランス語読みのマリー・ド・メディシスが一般的なようです。今回私は、イタリアびいきで(笑)マリアと記載します。マリアには何度か縁談話があったものの、上手くいかず、25歳まで独身だったのです。左の画像は、1595年頃にフィレンツェの画家アローリが描いたフィレンツェ時代のマリア(当時22歳)。財政困難であったフランス王家と、政治的にフランスとの結びつきを取り戻したかったフィレンツェがお互いの利益になるこの結婚に合意します。

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1600年10月5日にアンリ4世当時43歳、マリア当時26歳(結構、当時にしては晩婚・笑)は結婚します。
当初は、フランス側よりマリアの持参金100万ドゥカーティと提示されたのですが、フィレンツェ側との交渉により、40%引きのディスカウントして(爆)60万ドゥカーティにまで下がります(交渉してみるものですね!って実は、当時フランス王家はメディチ家に対して既に100万ドゥカーティの負債があったのでした・汗)。当時かなりの財産を蓄えていたフェルディナンドにとっても膨大な金額であった為、足りなかった分を、フィレンツェの貴族がカンパで(笑)補ったそうです。フィレンツェが「フィレンツェ出身の二人目のフランス王妃」でいかに沸いていたかが想像できます。


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フィレンツェで結婚の契約が行われた様子(画像上)、マリアがリヴォルノから船でマルセイユ到着し、フランスに上陸した時の様子(画像左)などは、現在、ルーブル美術館に展示されているルーベンスの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」で描かれています。余談ですが、マリアはカテリーナ・ディ・メディチと違い、生涯で余り大きな功績を残さなかったので、ルーベンスも彼女の生涯を描くのにかなり苦労をしたようで、ギリシャ神話や寓話を盛り込みながら、大作に仕上げます。

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カテリーナ・デイ・メディチと違い、政治的手腕を持ち合わせなかったマリアですが、唯一「イタリア女」と呼ばれフランス国民からは毛嫌いされていたという点は同じだった様です。マリアとアンリ4世の間には6人の子供が生まれます。
そして、結婚から10年後の1610年5月15日、フランス国王アンリ4世は、急進派のカソリック教徒によって暗殺されてしまいます。
こうして、マリアは当時9歳であった息子のルイ13世の摂政として、実質的にフランスの政権を握ります。マリアはフィレンツェから連れて来たイタリア人の相談役に政治を任せ、自らの浪費癖のために国の財政を利用します。こうした振る舞いにより彼女は、フランス国民からのみならず、息子ルイ13世からも反感を買います。

1617年、ルイ13世(当時16歳)は、母親であるマリアをブロア城に幽閉し、イタリア人相談役達は、逮捕、暗殺されます。2年後にマリアはブロア城を脱出し、一度はルイ13世と和解をします。


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この様子はルーベンスの連作で、「ブロア城を脱出するマリア」(画像左)や「ルイ13世と和解するマリア」(画像右)として描かれています。実際は、ブロア城を脱出する際に、マリアの体重に耐えられず、ロープが切れそうになり、危うく落下する所だったという話も残っています。ルーベンスに絵を描かせるということは、この頃までは、まだお金があったんですねえ。


その後、マリアは再びクーデターを企て、1631年にとうとう、フランスを追放されてしまいます。
ルイ13世は、フィレンツェに戻るのであれば、経済的な支援を行うという条件を提示しますが、マリアはこの申し出を断ります(今更、フィレンツェには帰りたくなかったのでしょうね)。その後、経済的にかなり貧窮したマリアはブリュッセルへ亡命し、その後ケルンに移ります。伝説では、王妃時代に自らのお付きの画家であったルーベンスのアトリエに身を寄せ、1642年にそこでひっそりと亡くなったそうです。

人生色々ですね・・・。

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by lacasamia3 | 2008-09-07 20:24 | フィレンツェ小話 | Comments(2)

イザベッラの場合・・・

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久しぶりにフィレンツェ小話です。
ええっと・・・夏休み前は、コジモ大公の息子、ピエトロの話でしたね。子沢山ではあったものの、子供は不運続きであったコジモ大公ですが、ピエトロの他にあと2人の娘がそれぞれ殺人事件に巻き込まれてしまいます。

イザベッラ ( 1542-1576) の場合・・・(画像左)

コジモ1世の娘のうち、一番美しいといわれていたイザベッラは、兄のフランチェスコの愛人であったビアンカ・カペッロに対して、家族の中で唯一、僅かながらも、親しみを持っていたのでした。
美しさと知識を持ち合わせ、人柄の良さで周囲を惹きつける魅力を持っていたイザベッラですが、18歳の時にローマの貴族パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ(画像下左)と結婚して以来、彼女の不幸が始まります。


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ローマの有力な貴族であったオルシーニ家からは、ローマ教皇も生まれ、ローマ周辺の多くの領地を支配していました。イザベッラの夫、パオロはローマの北側40キロの場所にある、ブラッチャーノという町の領主でした(現在も美しいお城が残っているんですよ)。結婚当初から、パオロは愛人とローマに住み、イザベッラはフィレンツェに住むという別居生活でした。

愛人ヴィットーリア・アッコランボーニ(画像上右)はパオロと結婚をする為に、パオロと一緒に殺人計画を企みます。


容疑者 パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ、ヴィットーリア・アッコランボーニ
被害者 イザベッラ・デイ・メディチ、フランチェスコ・ペレッティ


まず、二人はイザベッラを殺害する計画を練ります。前にも書きましたが、この時代、家長は家族のメンバーの生死を決める権利を持っていたのです。パオロはイザベッラが浮気をしていたという疑惑(この疑惑については真実であったという説もあるのですが・・・)をでっち上げます。

前から二人の企みを予感していたイザベッラは、パリのカテリーナ・ディ・メディチに向けて亡命の懇願する手紙を送っています。同年7月11日にピエトロが妻を殺害するという事件が起こった僅か5日後、1576年7月15日に突然、パオロがフィレンツェに戻るという知らせが届き、イザベッラはフィレンツェ郊外のメディチ家の別荘ヴィッラ・ディ・チェレート・グイーディに呼び寄せられます。

不吉な予感がしたイザベッラは、友人ルクレツィア・フレスコバルディと一緒に待ち合わせ場所へと向かいます。パオロとの夕食後、寝室へと戻ったイザベッラは、パオロとパオロの友人の騎士によって絞殺されてしまいます。

更に、パオロは愛人ヴィットーリアの助けを得て、ヴィットーリアの夫であるフランチェスコ・ペレッティもローマの自宅で殺害します。

こうして、晴れて(汗)、未亡人となったヴィットーリアとパオロは、ローマ教皇グレゴリウス8世に結婚の儀式を拒否され、ペレッティの暗殺の罪で追われることになったものの、教皇の力が及ばないブラッカーノで暮らすのです。1585年教皇グレゴリオ8世の死後、次の教皇に替わる空白の期間を利用し、二人はこっそりと結婚をするためにローマへと戻ります。所が、次の教皇になったのは殺害されたペレッティの叔父のシクストゥス5世
パオロとヴィットーリアは、教皇による復讐とトスカーナ大公から送られた暗殺者を恐れ、ヴェネツィアまで逃げます(皆、ヴェネツィアに逃げるんですね・笑)。

二人はヴェネツィアで1585年4月20日に結婚し、パオロは同年11月に亡くなります。その後、ヴィットーリアはパドヴァへと移り住むのですが、そこでパオロによって兄を暗殺されたパオロの親戚ルドヴィゴ・オルシーニによって殺害されます。

こうして、悪巧みをした二人は結局不運な最期を迎えたのでした。
余談ですが、ローマ教皇が誰になるかって、この時代(もしかしたら今も?)政治的にかなり重要なんですよね。

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by lacasamia3 | 2008-09-02 22:11 | フィレンツェ小話 | Comments(8)
メディチ話も大分時代が下ってきましたが、フェルディナンド1世以降に移る前に、ちょっと時代を遡り、コジモ1世の他の娘達のお話を少し・・・

本当にエピソードに尽きない家族だなあって思います(笑)。
結構意外なのですが、初代トスカーナ大公として、あれだけその名を世界に轟かせたコジモ1世(画像下左)ですが、老後は結構寂しく亡くなったんです。愛する妻エレオノーラ・ディ・トレドと二人の子供を一度にマラリアで失った後、2年後にトスカーナ大公の座をフランチェスコへと譲り、自らはヴィッラ・ディ・カステッロでひっそりと暮らします。


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1570年に財産分けをしないということを条件に、カミッラ・マルティネッリ(画像上右)という貴族の女性と再婚します(コジモ1世当時51歳、カミッラ当時25歳)。この結婚が原因で、子供達との関係が悪化していきます。脳梗塞が元で、会話をすることも出来なくなってしまったコジモ1世は、1574年にヴィッラ・ディ・カステッロでひっそりと亡くなります。

コジモ1世の長男フランチェスコ1世は、翌年、当時29歳だった継母であるカミッラをムラーテの修道院(カテリーナ・ディ・メディチが入れられた修道院です)へと強制的に入れます。フランチェスコ1世の死後、次男のフェルディナンド1世により、12年後、ようやく修道院から出ることが出来たのですが、既に精神を病み、再びサンタ・モニカ修道院に入れられそこで1634年に亡くなります(享年89才)。

先妻エレオノーラとの間に沢山の子供をもうけたコジモ大公ですが、それぞれ子供達はかなり波乱万丈の生涯を送っていて、結局、安定した結婚生活と老後を送ったのは、フェルディナンド1世だけでした。幼くして病気で亡くなった子供達を除き、成人した子供達が関わる3件の殺人事件が起こります。


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ピエトロ(1554-1604)の場合・・・(画像上左)

ピエトロはコジモ1世の五男で、主に外交に携わり、コジモ大公を下から支えます。幼少の頃から激情しやすい性格で、人間性という面でかなり問題があったようです。
従兄弟にあたる、ナポリのレオノーラ・ディ・トレド(画像上右)(母エレオノーラの弟の娘)と1571年に結婚しますが、ピエトロは浪費三昧、浮気三昧を続け、新婚当初からレオノーラに対して酷い態度を取ります。

夫に見向きもされず、だだっ広いメディチ宮にポツンと住んでいたレオノーラの悲しみは計り知れません。
そして、レオノーラは自分と同じ年の優しい貴族の青年、ベルナルド・アンティノーリと恋に落ちます(子孫はキャンティワインで有名なアンティノーリ家です)。
ある事件が原因となり、二人の関係はピエトロに知られてしまいます。ある日、ベルナルドはストロッツィ宮殿の脇で友人と喧嘩になり、相手を刺殺してしまいます。彼はすぐに逮捕され、アンティノーリ宮(現在もトルナブオーニ通りに残っています)に拘留されます。レオノーラは愛する人を一目見たさに、アンティノーリ宮の周りをコッソリとうかがうのですが、彼の姿を見ることは出来ません(窓が小さいからね・笑)。

エルバ島へと移送されたベルナルドは、レオノーラに密かに手紙を送ります。所がどうしたことか、この手紙は、夫のピエトロの手に渡ってしまい、二人の関係がバレてしまいます。ベルナルドはすぐにフィレンツェのバルジェッロへと移送され、6月20日に処刑されます。

7月11日にレオノーラは夫のピエトロよりヴィッラ・ディ・カファッジョーロ(フィレンツェの北側、我が家の近くにあるメディチ家の別荘です)に来るようにと伝えられます。死を予感したレオノーラは泣きながら幼少の息子をフィレンツェへと残し、夜、カファッジョーロへと向かいます。彼女の予想通り、同日、ピエトロはレオノーラを絞殺します。

この時代、家長は妻と子供達の生死を決める権利があったそうで、ピエトロには何の罪も課されません。しかしながらフランチェスコ1世は、弟のピエトロをフィレンツェから遠ざけます。彼の浪費癖と女遊びはその後も続き、結局、多額の借金を抱えて亡くなったのでした。

メディチ家事件簿はまだ続きます・・・

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by lacasamia3 | 2008-08-01 20:50 | フィレンツェ小話 | Comments(15)
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フランチェスコとビアンカの死後、コジモ1世の三男であり、それまでローマで枢機卿であったフェルディナンド(画像左)は法衣を脱ぎ捨て(画像右・笑)、フェルディナンド1世としてトスカーナ大公に即位します。
思えば、エレオノーラ・ディ・トレドとジョバンニ、ガルツィアの3人がピサでマラリアで亡くなったときに、唯一生き残ったのがフェルディナンドだったのです。60歳まで生きたし、この当時にしては生存力がありますよね~。飾り気がなく、寛大だった兄のフランチェスコとは全く正反対の性格だったようで、独自の狡猾さを発揮し(汗)、外交、内政共に、旨く行っていたそうです。


フェルディナンドは父親であるコジモ1世の代から強いつながりを持っていたスペインーオーストリアの影響力からトスカーナを解放させ、フランスとの交流を再開させます。
私も知らなかったのですが、フェルディナンド1世は、フランス王家にお嫁に行ったカテリーナ・ディ・メディチの孫にあたるクリスティーナ・ディ・ロレーナと結婚したんですね。メディチ本家出身のカテリーナと、分家出身のコジモ1世(フェルディナンドの父)は親戚同士だから、かなり血は近いんですけれどねえ(君たち・・・汗)。

1589年に行われた二人の婚礼の時には、ピッティ宮殿の中庭(きっと入ってすぐの柱がある回廊がある部分だと思います)を使って、水深2メートルの水槽作らせ(!)、計20隻の軍船による海戦のイベントが行われたそうです。私は、スゴイっ!と思い、昨晩アントネッロに「いや~フェルディナンドってさ、凄いイベントをピッティ宮殿で企画したんだよね」と言うと、アントネッロ曰く、「あのね、そんなの、とっくの昔に古代ローマ人がやっていたんだよ、チルコ・マッシモとか、コロッセオでさ・・・。スケールが違うぜ。」と軽く言われてしまいました(出たっアンティーコ・ローマおたく・笑)。

確かに、フェルディナンドはローマでの枢機卿時代、膨大な借金を抱えてしまうほどのローマ、ギリシャ彫刻のコレクターだったんですもんね。知らなかったはずはないです。ということは、フェルディナンド、古代ローマからパクった?(笑)。


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フランスからお嫁に来たクリスティーナは、沢山の宝石のコレクションや、当時フランスで流行っていたドレスをフィレンツェに持ち込みます。

現在、ウフィッツィ美術館の第33室に彼女の肖像画があります。
この肖像画の中で、着ているドレスは袖の部分が取り外し可能になっていて、肩の膨らみの部分と大きなボタンで留められているのが特徴で、これが当時のフィレンツェの宮廷の女性達の流行となったそうです。
ウフィッツィ美術館の第33室には、ビカンカ・カペッロの肖像画もあるんですね。今度行ったら、気をつけてみてみようと思います。


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左の画像もクリスティーナです。
良く見ると、脇には沢山の宝石をちりばめた王冠が描かれています。それまで、こうしたタイトルを持っていなかったメディチ家の歴史の中で、コジモ1世以降、"granduca"(グランドゥーカ=大公)というタイトルがつけられるようになり、代々、大公、そして大公夫人(granduchessa)は即位する時に各々の王冠を作らせます。
「即位式」というと、例えば先代や、司教がそれぞれ前の代から伝わる冠をかぶせるということをイメージしますが、コジモ1世以降のメディチ家のしきたりでは、それぞれが自分の冠とともに埋葬されるというものだったそうです。
だから、肖像画に描かれる冠のデザインは人それぞれなんですよ。
↑のフェルディナンドの肖像の中では2種類の冠が描かれていますが、両方とも持っていたんですかねえ?右側のフィレンツェの百合を赤い珊瑚?でつけた冠はデザインが・・・イマイチ(笑)。


ともかく、フィレンツェにいらしたら、ウフィッツィ美術館の第33室、Cristina di LorenaとBianca Cappelloの肖像画は是非チェックしてみてください!

ううう・・・私も見に行ってみたくなってきました(笑)。

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by lacasamia3 | 2008-07-24 17:38 | フィレンツェ小話 | Comments(9)
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この記事は、より見やすく編集しなおしてメインサイト、フィレンツェ情報ラ・カーサ・ミーアの中でフィレンツェ小話 400年のミステリーの永久保存版として掲載しています。

他の「フィレンツェ小話」の記事も時代順に見やすく編集して、こちらに掲載していますので、宜しかったらご覧下さい。
by lacasamia3 | 2008-07-02 03:33 | フィレンツェ小話 | Comments(11)

フィレンツェで山暮らしをするchihoの田舎便りです。フィレンツェの街歩き情報、イタリア風家庭菜園、お勧めレストラン現地情報、日帰りで行ける街の情報など。フィレンツェの滞在型アパートの紹介サイト「ラ・カーサ・ミーア」を運営しています。


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