カテゴリ:フィレンツェ小話( 43 )

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1737年に最後のメディチ家出身のトスカーナ大公、ジャンガストーネが亡くなります。
この時点で既に、ハプスブルグーロートリンゲン家のフランツ・シュテファンがトスカーナ大公となることが決まっていました。
所が当時、フィレンツェにはまだ、メディチ家の直系の血を引く「最後のメディチ」アンナマリア・ルイーザ・デ・メディチ(↑は若い時の肖画です)が残っていたのです。当時70歳で乳癌を患っていた彼女は、ピッティ宮殿の一角に自分の宮廷を設けること、今までどおりの生活を続けることを条件にフィレンツェの政治には干渉しないことにします。


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1739年1月20日、結婚したばかりの新婦マリア・テレジアと共に、新トスカーナ大公フランツ・シュテファンがウィーンからフィレンツェへやってきます。


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新トスカーナ大公夫妻を迎えるため、フィレンツェでは、現在のリベルタ広場の真ん中にある凱旋門の建設計画が持ち上がります。所が、フランツ・シュテファンの承諾を受け、オーストリア人建築家がフィレンツェに到着したのが1738年の12月(苦笑)。1ヶ月で凱旋門が出来るわけがないですよね。
12月、1月の厳しい寒さの中、工事が行われるのですが、結局土台を作ったのみで間に合いません。オーストリア勢はすぐそこまで来ている!ということで、木の枠を作り、そこに凱旋門を描いた布を被せることにします。いわゆる張りぼてです(爆)。
近くから見るとバレてしまうので、新トスカーナ大公の馬車のルートを大幅に変え、かなり遠回りし、張りぼて凱旋門を遠くから眺めるようにしたそうです(笑)。きっと、バレバレだったのでしょうが、この辺りはオーストリア人。お行儀良く、特にコメントもせずにフィレンツェに到着したそうです。きっと皮肉屋のフィレンツェ人だったら、わざわざ馬車を近くまで寄せて、激しくツッコミをいれまくるでしょうねえ(笑)。


こうして、フランツ・シュテファンとマリア・テレジアはフィレンツェに到着し、ピッティ宮殿に滞在します。彼らは早速、代々のトスカーナ大公が所有していた銀製品、ドレス、家具などを競売にかけて売り始めます。この3ヶ月の滞在の費用をコレで捻出したそうなんですよ(汗)。
その後、2人はウィーンに戻るのですが、ピッティ宮殿にはトスカーナ大公代理とそのお付きのもの、政治家として多くのオーストリア人が残ります。

このままではメディチ家の財宝が全てフィレンツェから持ち出されてしまうという危険を感じたアンナマリア・ルイーザは、ある条約を作成します。

この続きは叉次回・・・

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by lacasamia3 | 2009-01-20 19:02 | フィレンツェ小話 | Comments(6)
f0106597_2137815.jpgさて、今回のメディチ話の主人公は、いよいよメディチ家の最後の人物となるアンナ・マリアルイーザです。
コジモ3世の長女として1667年に生まれた彼女は、パリに戻ってしまった母親が不在のまま、他の2人の兄弟と共に乳母によって育てられます。彼女の幼少時代、しばしば、ピッティ宮のボボリ庭園を祖母ヴィットーリア・デッレ・ローヴェレと散歩していたそうです。
1690年に23歳で(結構晩婚?)プファルツ選帝侯ヨハン・ヴェルヘルム(当時32歳)の後妻として、ドイツのドュッセルドルフに嫁ぎます。新郎は新婦の到着を待ちきれずに、インスブルグまで迎えに行ったそうなんですよ。この時代、結婚前に見ることが出来るのは肖像画のみというケースが多かったそうです。ヨハンは、大きな瞳と美しい黒髪、白い肌のアンナ・マリアルイーザが肖像画どおりであったことを確認します(笑)。
二人は、子宝に恵まれなかったことを除いては、幸せな結婚生活を送ります。


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選帝侯妃として、ドュッセルドルフの宮廷を仕切り、幸せな毎日を送っていたアンナ・マリアルイーザですが、1716年に夫ヨハン・ヴェルヘルムの死により、再びフィレンツェへと戻ります。
彼女が戻ったフィレンツェには、年老いたコジモ3世(この7年後に亡くなります)、寝たきりのフェルディナンド(この年に亡くなります)、そしてボヘミアでの結婚に失敗しアル中になってフィレンツェに戻ってきていたジャンガストーネが待っていました。ジャンガストーネは自分の結婚の失敗を姉のせいにし、一方的にマリアルイーザと絶縁してしまいます。
もはやメディチ家の跡継ぎが生まれる可能性がないということが明確になると、ヨーロッパの主要国がトスカーナ公国の継承権をめぐり争います。そして結局は、ハプスブルグ家ーロレーヌ公(ロートリンゲン公)がトスカーナ公国を継承することとなります。
1737年のジャンガストーネの死により、ロレーヌ公フランツ1世(マリア・テレジアの夫、マリーアントワネットの父)がトスカーナ大公の位を引き継ぎます。フランツ1世自体は、ウィーンに住み続け、フィレンツェには殆ど滞在しないのですが、トスカーナの政治を行う官僚は全てオーストリア人となります。
こうして、「最後のメディチ」アンナ・マリアルイーザと、ウィーンからやって来たオーストリア人達がピッティ宮で「同居」することとなるのです。

さて、どうなることやら、続きは後程・・・

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by lacasamia3 | 2009-01-15 22:54 | フィレンツェ小話 | Comments(4)
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長かったメディチ家のトスカーナ大公の歴史もいよいよお終いです。
1569年のコジモ1世のトスカーナ大公戴冠を経て、続いたトスカーナ大公の168年の歴史は、7代目トスカーナ大公ジャン・ガストーネの死により幕を下ろします。
←はジャン・ガストーネの肖像。う~ん、何だかシュールな肖像画ですが、果たして本人はこれで喜んでいたんでしょうかねえ(汗)。
コジモ3世の次男として生まれたジャン・ガストーネは、兄フェルディナンドが梅毒を患ったために、跡継ぎ誕生+トスカーナ大公になることを期待されます。
父コジモ3世と、既にドイツのドュッセルドルフに嫁いでいた姉のアンナマリア・ルイーザの間で、ジャン・ガストーネにふさわしい結婚相手として、ボヘミア地方(現在のチェコ)のアンナマリア・フランチェスカ(プファルッ選帝侯子息フィリッポの未亡人)との縁談が進められます。
芸術と音楽を愛し、フィレンツェの宮廷の生活に慣れていたジャン・ガストーネにとってボヘミアの厳しい冬は長すぎたようです。新婦のアンナマリア・フランチェスカは、宮廷生活を嫌い、乗馬や狩りを好み、一日中、山歩きをしたりするアウトドア派(笑)だったそうです。
跡継ぎ誕生どころか、ジャンガストーネはとうとう、プラハへと逃げ出し、結局は1708年にフィレンツェへと帰ってきてしまいます。


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ボヘミアでの生活の中でアルコール中毒になってしまったジャンガストーネは、フィレンツェから出発した時に比べて、別人のようだったそうです。
1723年にコジモ3世が亡くなり、ジャン・ガストーネがトスカーナ公国を継ぎ、トスカーナ大公となります。
彼は政治を行わず、ピッティ宮の自室のベッドから動かずに酒びたりという自堕落な生活を送ります。外部の者の入室を禁じ、ベッドすら掃除をすることを禁止したそうなんですよ(きっと凄いことになっていただろうなあ・・・)。
ジャン・ガストーネがカミングアウトした同性愛者であったことで、ジャン・ガストーネの死後トスカーナ公国を誰が継承するか?とオーストリア、フランス、スペインなどのヨーロッパの主要各国が、彼の生前から議論し始めます。この場で、フィレンツェから、はたまた、イタリアの他の公国からは誰も大きな発言権を持つ者が居なかったということは、いかにイタリアの各公国がこの時代ヨーロッパ政治の中で影響力を失ってしまったかを物語っています。

ここで私が面白いなあと感じたのは・・・

コジモ1世の時代から、政治のためにヨーロッパの各国の宮廷と婚姻を結んできたわけですが、逆に言えば各国の貴族が継承権を持つことなり、公国内での跡継ぎが居なくなると、継承権を主張する他の国に支配されてしまうのですね。

ブルボン朝のスペイン王カルロス3世とハプスブルグ家のフランツ・シュテファン(マリアテレジアの夫)が継承権を巡って対立しますが、数度の会合により、結局、カルロス3世のブルボン家がナポリとシチリアを支配する代わりに、フランツ・シュテファンのハプスブルグ家がトスカーナ大公となりトスカーナ公国を支配することとなります。

ジャン・ガストーネは1737年に亡くなります。
その後すぐにオーストリアからトスカーナ大公を継承したフランツシュテファンやってきます。彼は、ジャン・ガストーネをそれまでの悪政の象徴とし、サンロレンツォのメディチ礼拝堂君主の礼拝堂内にはモニュメントを作らずに、クリプタの祭壇の脇の隠れるようなスペースに埋葬したそうです。

こうしてメディチ家出身のトスカーナ大公の歴史は終わりますが、まだ最後のメディチ、アンナマリア・ルイーザ(1716年に未亡人となりドイツからフィレンツェに戻っていました)がフィレンツェに残っています。

次回は彼女の話を・・・

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by lacasamia3 | 2009-01-10 19:20 | フィレンツェ小話 | Comments(6)
f0106597_285370.jpg今年の3月から書き始めた「フィレンツェ小話」は、既に1600年代の終わり、そろそろメディチ家終焉の鐘が鳴り始めたようです。
今年最後の小話の主人公は、フェルディナンド・ディ・メディチ(画像左)。
「ひきこもりトスカーナ大公」コジモ3世とパリに逃げ帰った「モーレツ姫」マルゲリータ・ドルレアンの間に生まれた3人の子供のうちの長男です。
母親は彼が幼い頃にさっさとパリへと戻ってしまい、父親であるコジモ3世が3人の子供を育てます。ただ、父親との交流は殆ど無く、共通点を見出せないまま、子供達は成長していきます。特に、音楽、演劇、芸術を愛する長男フェルディナンドと、狂信的な程に宗教へと倒錯する父コジモ3世の対立が耐えませんでした。ピッティ宮殿を修道僧で埋め尽くし、贅沢を嫌ったコジモ3世の政策に反対したフィレンツェ人は、社交的な性格で頭が切れるフェルディナンドを支持するようになります。
道楽息子フェルディナンドを何とか結婚させれば、少し落ち着くのではないか?と考えたコジモ3世は、フランス王家とも近い血縁を持つバイエルン選帝侯の娘ヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラを息子の嫁にふさわしいと、根回しをし始めます。問題は、どうってフェルディナンドに結婚に同意させるかでした。そこで、結婚をしなければ、今後の金銭的援助をストップすると宣言します。演劇や芸術を愛し、度々、ヴェネツィアに行き、膨大なお金を使っていたフェルディナンドはそれが出来なくなることを恐れ、結婚に同意します。(余談ですがこの時代、ヨーロッパ中のプリンチペにとって、ヴェネツィアはラスベガスとか夏のリミニの様な滞在先だったんでしょうね。「遊ぶぞ~!」みたいなお年頃の王子様がお供の者を連れて繰り出していたんだろうなあ)


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1689年1月、極寒のフィレンツェのドゥオーモでフェルディナンド(当時26歳)とベアトリーチェ(当時17歳)の結婚式が行われます(寒かっただろうなあ)。ベアトリーチェは一目フェルディナンドに会った時から一目惚れしますが、フェルディナンドは全く花嫁に興味を示さず、新婚当初から、以前と変わらない道楽放題の生活を続けます。
そして、ある年、ヴェネツィアに遊びに行っていたフェルディナンドは、ある貴族の女性から梅毒をうつされてしまいます。
その後、長い闘病生活の末、1713年にトスカーナ大公の位を引き継がず、子供も残さずに亡くなります。ベアトリーチェは、その間ずっとフェルディナンドの看病をし、そばに付き添います(けなげ・・・)。

余談ですが、未亡人ベアトリーチェはその後、ピッティ宮に残り、後年フェルディナンドの弟のジャン・ガストーネの最期も看取ることとなります。

来年になりますが、次回の「フィレンツェ小話」の主人公は次男のジャン・ガストーネです。
日本はもう31日ですね。年末のご挨拶はイタリア時間で明日の31日にとっておきますね。

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by lacasamia3 | 2008-12-31 03:27 | フィレンツェ小話 | Comments(6)
時は1692年。妻に逃げられた(爆)トスカーナ大公コジモ3世(50歳)は、一人寂しく、既に成人した3人の子供達から、跡継ぎとなる孫誕生の朗報を首を長くして待っていました(結局、誰にも子供は生まれず、彼らの代でメディチ家が途絶えることとなってしまうのです)。
当時、フィレンツェの宮廷は、ドイツ、イギリス、デンマーク、ノルウェーなどの北ヨーロッパ諸国の宮廷と密接な関係を保っていました。この年、若きデンマーク皇太子フレデリク(後のデンマーク国王フレデリク4世)がトスカーナを訪問し、フィレンツェのコルソ通りにあったサルヴィアーティ邸(ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの住居だったところです)に滞在します。
この滞在中にフレデリクはルッカを訪れます。イタリア語を理解しなかったフレデリクの為に、ルッカ人の女性フランス語通訳が用意され、通訳を務めたのは活発で美しかったマリア・マッダレーナ・トレンタ(当時22歳)。もちろん、お年頃の皇太子が彼女の魅力に気付かないわけはなく、2人は一気に恋に落ちます。マリアの婚約者は失望の後、彼女との婚約を解消してしまいます。
フレデリクはマリアを愛人にする意思はなく、かなり真剣なお付き合いだったようです。それでも、彼の帰国と共に2人の幸せな時間は終わり、フレデリクはマリアをルッカに残してデンマークへ戻ってしまいます。別れの際、彼はマリアに"ADDIO" (アッディーオ=永遠のお別れの時に使う別れの言葉)ではなく、"ARRIVEDERCI"(アリヴェデールチ=「また会う日まで」)と言います(←この優柔不断な優しさが罪なんだよなあ・涙)
その後、皇太子からの便りは1通も届かないのですが、それでもマリアは、根気強く彼からの手紙をルッカで待ち続けます。何件かあったルッカの貴族達からの求婚も断り、しばしばルッカの城壁に上がり、皇太子からの便りを届ける使いの到着を夢見ながら、3年間辛抱強く待ちます。
それでもとうとう、愛する人に忘れられてしまったことを確信したマリアは、怒りもせず、泣きもせず、黙ってフィレンツェのボルゴ・ピンティ通りにあったサンタ・マリア・マッダレーナ・デ・パッツィ修道院に入り、修道女スオール・テレーザとなります。

所が、フレデリクはデンマークに戻っても、ルッカの娘のことを忘れてはいなかったのでした。ある日、自分の肖像画のミニアチュールを描かせ、マリアへと贈ります。ミニアチュールは修道院へ届きます(こんなことしても、マリアを苦しめるだけなのですけれどねえ・涙)。マリアは、ミニアチュールに十字架を添えて、デンマークへと送り返すのです。戻ってきたミニアチュールと十字架を受け取ったフレデリクは、送り元が修道院であったことから、やっと事態を理解します(←遅すぎ)。

2度の結婚を経たものの、幸せではなかったフレデリクは1709年(当時36歳)に昔の思い出を辿り、再びフィレンツェを訪れます。
この時、滞在先として希望したのが前回にも滞在したコルソ通りのサルヴィアーティ邸でした。実は、コルソ通りと修道院があったボルゴ・ピンティ通りはとても近いのです(現在のスーパースタンダの近くですね)。
フレデリクは側近を通じて、修道院長へマリアとの面会を申し入れます。勿論、一国の国王の望みであっても、修道女との面会は許されるはずがありません。結局、フレデリクはコジモ3世を通じて面会の許可を得ることとなります。但し、鉄格子越しで、立会人として修道女が1人付くという条件です。
1709年3月22日、午後15時30分(←細かすぎ・笑)、フレデリックは修道院を訪れます。暗い修道院の一室で、金網越しに修道女姿のマリアが現れます。特例として、顔のベールを上げることが許され、フレデリクがルッカで出会った娘の白い顔が現れます。2人は終始フランス語で会話をしたため、立会いの修道女は内容を理解することが出来なかったそうです。

2時間に渡る二人の面会が終わると、修道院の外には野次馬が沢山集まっていたそうです。修道院を出たフレデリクは、そんな人だかりも気にせずに、号泣するのでした。

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by lacasamia3 | 2008-12-15 06:28 | フィレンツェ小話 | Comments(22)
ルネサンスの時代を華やかに生き抜き、16世紀もヨーロッパにその名をとどろかせ、2人のフランス王妃を輩出したフィレンツェのメディチ家ですが、1743年に最後の末裔であるアンナ・マリア・ルドヴィカの死をもって途絶えます。
最後の代となる、コジモ3世の3人の子供(2男、1女)のそれぞれに全く子供が生まれなかったのが原因です。勿論、親戚同士で結婚しすぎてしまった結果、健康体ではなかったということも1つの原因ですが、それは娘のアンナマリアにのみ当てはまるようです。他の2人の息子達はそれ以前の問題だったようで、それについてはまた次回お伝えしますね。


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さて、当時「ヨーロッパで結婚したい姫ランキング1位」であったマルゲリータ・ルイーザ(画像上右)は、従兄弟であるフランス国王との縁談もあったほどでした。トスカーナ大公フェルディナンド2世は、自分の息子であるコジモ3世(画像上左)の嫁にふさわしいかどうか調査をするために、大使をパリに送ります。そしてパリ駐在大使より「容姿は勿論のこと、姫は性格がとても良く、辛抱強く、根気があります」というレポートがフィレンツェに届きます(この全く事実に基づかないコメントが、後で大変な惨事を引き起こすのですが)。


マルゲリータはフィレンツェからの縁談をすぐに断ります(といってもこういった縁談の場合、本人の主張は余り尊重されないのですが・・・)。彼女がパリを離れたくなかった理由には・・・


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←ロレーヌ公カール5世という恋人がいたからなのでした(キラ~ン・カッコいいかも)。
確かに、引きこもりがちで、唯一の趣味は「レリークイエ(聖人の衣服や遺体の一部)コレクション」、話し相手は常に聖職者のみというコジモ3世と、花の都パリでの華やかな生活に慣れたマルゲリータの2人には大きな違いがありすぎですよね。
従兄弟であるフランス国王にもパリに残りたいと懇願したものの、結局は縁談がまとまり、マルゲリータはフィレンツェに嫁いできます。
結婚記念の銀食器のセットをポイッとお付き役のフランス貴婦人にあげてしまったり、コジモ3世が自分の部屋に入ってくるのを禁じたり(汗)、イタリア語は全く使わず、回りをフランス人の側近で固めて、ピッティ宮殿の宮廷ではかなり異色な存在だったそうです。
その後、マルゲリータの所有物として、銀のコインが見つかったそうなのですが、その内側は空洞になっていて↑恋人のカール5世の小さな肖像画が中に入れられていたそうです。
彼女のパリへの想いは更にエスカレートし、ピッティ宮を逃げ出し、ポッジョ・ア・カイアーノの別荘へと篭ってしまいます。公用でピサを訪れていた際には、宿泊先の宮殿の窓からジプシーと「パリへの脱走作戦」を企てていた所を見張りに見つかってしまいます(苦笑)。
彼女のモーレツぶりは、とどまることを知らず、姑であるフェルディナンド2世は、嫁の気分を落ち着かせるために、息子のコジモ3世を度々ヨーロッパ各国の旅行へと出します。
こんな状況の中、1667年から71年の4年間の間に、2男1女を出産します。子供の世話や教育には全く無関心で、他人任せだったようです・・・。
「フィレンツェに居るぐらいだったら、パリに帰って修道院に入ったほうがましだっ!」とまで言い放ったマルゲリータの13年間続いたモーレツ振りに、とうとう、フランス国王もコジモ3世も疲れ果て、根負けします。フィレンツェへの嫁入りから13年後の1774年にフランス国王よりパリへ戻ることが許されます。マルゲリータは断言したとおりに、パリ、モンマルトルの修道院に入ります。修道院とはいえ、中に来客用のサロンを作ったり、外部からも訪問ができるように規則を変えたりして、かなり自由気ままな生活を送っていたようです。別居をしているとはいえ、トスカーナ大公夫人であるので、多額の年金もフィレンツェから毎年支払われていたそうなんですよ。

きっと、フランス国王も、コジモ3世もこれでホッとしたんでしょうね。(苦笑)。その後はモンマルトルの修道女達が大変だったんだろうなあ(爆)

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by lacasamia3 | 2008-12-10 03:22 | フィレンツェ小話 | Comments(6)
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「マリア・デ・メディチとカテリーナ・ディ・メディチ」展に展示されていた1対の絵の、もう一枚の絵には、フランス国王アンリ4世へと嫁ぐマリア・デ・メディチのフィレンツェでの代理人との婚礼の儀式が描かれています。マリア・デ・メディチの結婚は叔父であり花婿代理を務めたフェルディナンドが仕切ります。

日時:1600年10月5日
場所: フィレンツェ ドゥオーモ
登場人物: 新婦 マリア・デ・メディチ(故フランチェスコ1世と故マリア・マッダレーナの娘)
新郎代理:フェルディナンド1世(フランチェスコ1世の弟、マリアの叔父 トスカーナ大公)


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画面左: コジモ2世(↑黄色い服を着た左端の子供、後のトスカーナ大公)
クリスティーナ・ディ・ロレーナ(←フェルディナンド1世の妻 マリアの叔母 トスカーナ大公夫人)
こちらを向いているクリスティーナは、1枚目の絵に描かれたカテリーナ・ディ・メディチの孫で、逆にフランスからフィレンツェに嫁いできた女性です。
「ピッティ宮で海戦」


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画像右: フェルディナンド1世の後方にいる3人の男性は、どの人物がどの名前に該当するのかははっきりと判らなかったのですが、それぞれ凄いストーリーを抱えた人物なのです。


ドン・アントニオ
(恐らくフェルディナンド1世の左側にいる人物。
フランチェスコ1世とビアンカ・カペッロの間に生まれた子供と言われていますが、どうしても子供が欲しかったビアンカが女中が生んだ子供を自分の子供とでっちあげたという説もあります)
「ビアンカとフランチェスコ1世」

ドン・ジョヴァンニ
(コジモ1世と愛人のエレオノーラ・ダルヴィツィの子供)

ドン・ヴィルジーニオ
(イザベッラ・ディ・メディチとパオロ・オルシーニの子供)
「メディチ殺人事件」で夫のパオロに殺害されたイザベッラの子供です。


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フェルディナンド1世(画面中央)は、花嫁マリアの父親フランチェスコ1世と後妻のビアンカを毒殺したという疑いをかけられています。
「400年のミステリー」


こう考えると、凄いメンバーが揃った婚礼の儀式だったんですね。

この企画展には、マリア直筆の手紙や、カテリーナのお守り、絵皿、飾りだな、豪華なタペストリーなども展示されています。普段見ることが出来ない作品ばかりで、なかなか面白かったですよ。

CATERINA MARIA DE' MEDICI - DONNE AL POTERE
フィレンツェ ストロッツィ宮
2008年2月8日まで
毎日9時~20時(木曜のみ9時~23時)
入場料10ユーロ
(CASSA DI RISPARMIO DI FIRENZEのキャッシュカード、ATAFバスの切符または定期券、国立美術館の入場券などを提示すると割引になります。6歳以下の子供は無料です。)

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by lacasamia3 | 2008-11-28 07:29 | フィレンツェ小話 | Comments(16)
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先日、フィレンツェのストロッツィ宮殿で現在公開されている企画展「カテリーナとマリア・ディ・メディチ展」(Caterina e Maria de' Medici- Donne al Potere) を見に行ってきました。
10月24日から来年、2009年2月8日まで、フィレンツェのストロッツィ宮殿で行われています。

フィレンツェからフランスに嫁ぎ、フランス王妃となった2人の女性にスポットを当てたこの展覧会では、普段は公開されていないウフィッツィ美術館の収蔵作品なども展示されていて、点数はそれ程多くないものの、なかなか興味深かったです。
面白かったのが、2人の王妃の婚礼の様子を描いた↓この2点の絵画です。
かなり大きな作品で、人物は等身大位でした。どちらも同じJacopo di Chimenti da Empoliという画家が描いています。
勿論、この2つの婚礼には70年の年月の差があり、1枚目の「カテリーナ・ディ・メディチの婚礼」は、カテリーナの死後、描かれたものです。それでも、登場人物は、かなり忠実に描かれています。


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「カテリーナ・ディ・メディチとフランス王アンリ6世の婚礼」

場所:1533年10月23日 フランス、マルセイユ
登場人物: 
新郎オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のフランス国王アンリ2世)
新婦カテリーナ・ディ・メディチ

左端 フランソワ1世(フランス国王 財政難をかかえる)
中央 ローマ教皇クレメンス7世(カテリーナの叔父 メディチ家復興を企てる)
右奥 マリア・サルヴィアーティ(黒いベールを被っている女性)
彼女は、ジョヴァンニ・デッレ・バンデネーレの妻で、ロレンツォ豪華王の孫、そしてコジモ1世の母親です。ジョヴァンニの死後、表には殆ど姿を現さなかったそうですが、両親を幼い頃に亡くしたカテリーナの母親代わりとして、マルセイユまで付き添ったそうです。


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カテリーナは当時14歳。婚礼の前に、一時、叔父のクレメンス7世がいたローマに滞在します。ローマでは従兄弟のイッポーリトとの交流があります。カテリーナよりも10歳年上のイッポーリトは人徳があり、人を惹きつける性格の良い人物であったことが知られています。そして、恐らく、カテリーナがイッポーリトに片想いをしていたそうです。カテリーナとイッポーリトの縁談→メディチ家の復興という仮説を立てた周囲もいたそうですが、結局は、財政難をかかえるフランス王と、フランス王家との結びつきを謀るローマ教皇の間で縁談がまとまり、カテリーナはフランスへ嫁ぐことになります。
(叔父とはいえ、ローマ教皇がわざわざフランスまで出向いて婚礼を司るなんて、すごいことですよね)

カテリーナは、フィレンツェの職人が仕立てたドレス、豪華な宝石などを大量にフランスに持ち込みます。その中でも有名なのが、「ローマ教皇の真珠のネックレス」です。クレメンス7世が婚礼の祝いにとカテリーナに贈った大粒の真珠が7個ついたネックレスは、当時でもかなり有名だったそうで、多くの盗賊たちが、道中、このネックレスを狙ったそうです。後年、カテリーナは長男の嫁になった、メアリー・スチュアート(フランス王妃で後のスコットランド女王)にこのネックレスを婚礼の祝いとして贈ります。
嘘か、本当か、エリザベス女王がメアリー・スチュアートを処刑した際に、まずはこのネックレスを奪い取り、処刑したという伝説が残っています(汗)。ともかく、現在はイギリス王家の所有物となっているそうです。

長くなってしまったので、もう1枚の「マリア・ディ・メディチの婚礼」については次回に書きますね。

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by lacasamia3 | 2008-11-26 20:18 | フィレンツェ小話 | Comments(10)
ご存知の通り、フィレンツェのメディチ家は、1600年代後半の最後の代の3人兄弟に子供が生まれず、跡継ぎがいないということで、1743年にメディチ家最後の人物アンナ・マリア・ルイーザの死をもって、途絶えてしまいます。親戚同士で結婚をしすぎてしまったことによる医学的な結果と私も思っていたのですが、メディチ家の歴代の当主をそれぞれ観察してみると、フェルディナンド2世(アンナ・マリア・ルイーザの祖父)の代からガタッとモラルのようなものが崩れてしまうのが感じられます。
それまでも、自由恋愛は存在せず、政略結婚なのですが、それなりにお互いに共通点を見出し、夫婦としての信頼関係を築き上げます。ところが、1600年代以降、政治的、経済的な目的での政略結婚が結ばれた時に、それぞれ新郎側、新婦側の両方に、被害者的な意識が生まれ(←それはそれでもっともなんですけれどね)、跡継ぎのために子供を作るものの、お互いに好き勝手なことをやっている・・・みたいな。そうした価値観の変化のようなものがメディチ家の滅亡につながっていったのかも知れません。

子育てって大事だなあとメディチ家の当主たちを見ながらつくづく思いました(笑)。


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←これは、フェルディナンド2世ヴィットーリア・デッレ・ローヴェレの肖像画です。
ウンブリア公国の継承権を狙った「嫁姑の企み」で結婚をさせられた二人です。覚えていますか?結局、嫁姑の企みは見事に失敗してしまうわけですが・・・。

幼少の頃から修道院に入れられ、ひたすら「トスカーナ大公夫人」になるために育てられたヴィットーリア

しきたりばかりを重んじ、対立しあう母親と祖母からの教育を受け、逆に放蕩息子として育つフェルディナンド

全く共通点がないこの二人は、結婚してからもお互いに共通点を見出せないまま、1642年にコジモ(後のコジモ3世)と、1660年にフランチェスコ・マリアの二人の子供をもうけます。
長男がうまれてから次男が生まれるまで、20年近い長い空白の期間があるのですが、これには、どうやらフェルディナンド2世の愛人問題が絡んでいるそうです。

大げさな程に敬虔深い母親や妻とは正反対に、率直で自由奔放な性格のフェルディナンド2世は、フィレンツェの一般市民からは人気がありました。そして、ブルート・デッラ・モレーナ(♂)という小姓がトスカーナ大公フェルディナンド2世の愛人であったことがかなりオープンに知られていたそうです。
ある時、宮廷の中で同性愛が支持され始めたことについて、母親マリア・マッダレーナが「厳しい処罰を受けるべきだ」と言及した所、フェルディナンド2世は、「最初にその処罰を受けるべきなのは自分だ」と答えたそうです(よくよく考えると、この人、母親に面と向かってカミングアウトしているんですよね・汗。それもまた凄いかも)。

そして、ある日、フェルディナンド2世がブルートと浮気をしている現場を、妻ヴィットーリアが目撃してしまうのでした(汗)。それ以来、フェルディナンド2世はヴィットーリアの寝室に立ち入り禁止となってしまいます。(20年間立ち入り禁止だったんでかねえ・汗)

興味深いのは、現在の歴史の本を読んでも、同性愛のことを"vizio"(悪癖)とすること。そして、2000年に生きている私にとってはその表現に違和感を感じること。歴史の本って、それぞれ書かれた時代の価値観を反映する場面が多々ありますが、20世紀の歴史の本と、21世紀の私の価値観がまた違うのかな?と思ったりしました。
個人的には、13歳の子供を政略結婚に巻き込むことのほうが、よっぽど不健全だと思うのですが(笑)。かと言って、果たしてフェルディナンド2世の愛人ブルートが成人していたかどうかと言うのは判らないのですが・・・。まあ、健全か、不健全かなんてかなり主観的な判断基準ですね。

さて、↑こんな二人に育てられた長男コジモ3世はどんな人だったかというと・・・
また次回をお楽しみに♪

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by lacasamia3 | 2008-10-31 00:26 | フィレンツェ小話 | Comments(9)

ガリレオとローマ教皇

地動説を唱えたガリレオがローマ教皇庁により裁判にかけられ有罪判決を受けた「ガリレオ裁判」は歴史上、よく知られています。現在では1616年と1633年に行われた2回の裁判については様々な説があるので、今回の記事は、1つの仮説として読んでいただければ幸いです。
最近、図書館で見つけた"LA SPLENDIDA STORIA DI FIRENZE" Piero Bargellini著に面白いエピソードが載っていたのでご紹介します。

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1610年頃から地動説を言及しはじめたガリレオは1616年に異端審問審査にかけられ、ローマ教皇庁は今後、地動説を唱えないようにとガリレオに命令します。
ところが、1623年、ガリレオの擁護者であり、彼と親交があったフィレンツェ人バルベリーニ司教がローマ教皇ウルバヌス8世(下画像左)として即位します。ガリレオはこれを好機にと考え、「天文対話」を書き始めます。この本は、直接的に地動説を訴えるのではなく、ガリレオの地動説を唱えるサルヴィアーティ、教会の天動説を唱えるシンプリチオ、司会者役のサグレードの3人の対話形式で構成されています。

ガリレオは「天文対話」の原稿をかかえてローマを訪れます。1616年の裁判は嘘のように、ローマでは教皇は勿論のこと、複数の擁護者の歓迎を受けます。貴族フェデリコ・チェーズィが自ら出版費用を負担し、ガリレオの本をローマで刊行する申し出をします。原稿はローマ教皇庁に提出され、数箇所の修正を加えることを条件に出版許可を得ます。

原稿を抱えてフィレンツェに戻ったガリレオはトスカーナ大公フェルディナンド2世(下画像右)に結果を報告し、祝福を受けます。


所が・・・

突如、本の出版を申し出たフェデリコ・チェーズィが急死したという知らせが届き、「天文対話」の出版は暗礁に乗り上げます。焦った周囲の貴族はガリレオにフィレンツェで本を刊行することを勧めますが、教皇庁は「ローマで印刷し、印刷中に1ページずつの細かい修正箇所のチェックを行うということを前提に先に出版許可を出したのだから、フィレンツェで印刷するのであれば、まだ未チェックであったガリレオが持ち帰った「目次」をローマに送るようにと命じます。

この困難に追い討ちをかけるかのように、1630年にフィレンツェではペストが流行します
フェルディナンド2世は、これまで前例がないほど厳しい衛生法を施行し、フィレンツェ外部からの人や物の往来を規制します。このため、「天文対話」の目次や原稿をローマに送られることが不可能となってしまいます。


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時間が経つごとに、ローマ教皇は「このトスカーナ公による異例の厳しい衛生法は、ペストの流行を抑えるためではなく、実は、ガリレオの著書の発行という偉業をフィレンツェで独り占めしようとするトスカーナ公の策略なのではないか?」と疑い始めます。

ガリレオは、自らの残り少ない寿命を考えると、原稿の出版が様々な障害により中断していることに苦しみます。そして1632年、「天文対話」がフィレンツェで出版されます。ペストの猛威もようやく落ち着いたために、早速、印刷された本がローマへと送られます。

ローマ教皇ウルバヌス8世は本の出版を喜ぶどころか、「騙された!」と激高したそうです。
この教皇の態度の変化には、勿論、ペストのためにフィレンツェで出版されたことなどが原因となっていると考えられますが、更に、「『天文対話』の登場人物の一人で教会の天動説を唱え頭の悪い人物として描写されたシンプリチオが、実はウルバヌス8世を風刺したものだ」という話をウルバヌス8世本人に吹き込んだ人物が居たそうです。

結局、このローマ教皇の態度の変化により、ガリレオは再度、異端審問会にかけられ、有罪の判決を受けます。ここで、フィレンツェのフェルディナンド2世が強い態度でガリレオを擁護しなかった裏には、妻でありとても敬虔深かったヴィットーリア・デッラ・ローヴェレが「ローマ教皇に対抗すること=キリスト教会に対抗すること」を強く拒んだからとも想像できます。フェルディナンド2世が強くガリレオを擁護した場合、フェルディナンド2世にも「異端」の疑いをかけられ、ローマ教皇の思うつぼになってしまう危険があったのでしょうね。

出版をめぐるゴタゴタ、ペストの流行、ローマ教皇とトスカーナ大公の確執などに巻き込まれたガリレオは、結局、フィレンツェで自宅謹慎となり亡くなります。カトリック教徒としてお墓に葬ることも禁止されたため、トスカーナ大公は、メディチ家のお墓があるメディチ礼拝堂でガリレオの亡骸を保存し、1737年、メディチ家が途絶える間際に、ようやくサンタクローチェ聖堂に立派な墓標を造り埋葬します。

アントネッロ曰く、「たとえローマで印刷していたとしても、教皇庁の許可は下りなかったさ。最初に許可を出したのは、検閲官が面倒くさがってちゃんと全部読んでいなかったからだよ。」と言っていますが、どうでしょうね・・・。

ガリレオのお墓は、フィレンツェのサンタクローチェ教会内にあります。

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by lacasamia3 | 2008-10-27 18:28 | フィレンツェ小話 | Comments(2)

フィレンツェで山暮らしをするchihoの田舎便りです。フィレンツェの街歩き情報、イタリア風家庭菜園、お勧めレストラン現地情報、日帰りで行ける街の情報など。フィレンツェの滞在型アパートの紹介サイト「ラ・カーサ・ミーア」を運営しています。


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