ルネサンスの時代を華やかに生き抜き、16世紀もヨーロッパにその名をとどろかせ、2人のフランス王妃を輩出したフィレンツェのメディチ家ですが、1743年に最後の末裔であるアンナ・マリア・ルドヴィカの死をもって途絶えます。
最後の代となる、コジモ3世の3人の子供(2男、1女)のそれぞれに全く子供が生まれなかったのが原因です。勿論、親戚同士で結婚しすぎてしまった結果、健康体ではなかったということも1つの原因ですが、それは娘のアンナマリアにのみ当てはまるようです。他の2人の息子達はそれ以前の問題だったようで、それについてはまた次回お伝えしますね。


さて、当時「ヨーロッパで結婚したい姫ランキング1位」であったマルゲリータ・ルイーザ(画像上右)は、従兄弟であるフランス国王との縁談もあったほどでした。トスカーナ大公フェルディナンド2世は、自分の息子であるコジモ3世(画像上左)の嫁にふさわしいかどうか調査をするために、大使をパリに送ります。そしてパリ駐在大使より「容姿は勿論のこと、姫は性格がとても良く、辛抱強く、根気があります」というレポートがフィレンツェに届きます(この全く事実に基づかないコメントが、後で大変な惨事を引き起こすのですが)。
マルゲリータはフィレンツェからの縁談をすぐに断ります(といってもこういった縁談の場合、本人の主張は余り尊重されないのですが・・・)。彼女がパリを離れたくなかった理由には・・・

←ロレーヌ公カール5世という恋人がいたからなのでした(キラ~ン・カッコいいかも)。
確かに、引きこもりがちで、唯一の趣味は「レリークイエ(聖人の衣服や遺体の一部)コレクション」、話し相手は常に聖職者のみというコジモ3世と、花の都パリでの華やかな生活に慣れたマルゲリータの2人には大きな違いがありすぎですよね。
従兄弟であるフランス国王にもパリに残りたいと懇願したものの、結局は縁談がまとまり、マルゲリータはフィレンツェに嫁いできます。
結婚記念の銀食器のセットをポイッとお付き役のフランス貴婦人にあげてしまったり、コジモ3世が自分の部屋に入ってくるのを禁じたり(汗)、イタリア語は全く使わず、回りをフランス人の側近で固めて、ピッティ宮殿の宮廷ではかなり異色な存在だったそうです。
その後、マルゲリータの所有物として、銀のコインが見つかったそうなのですが、その内側は空洞になっていて↑恋人のカール5世の小さな肖像画が中に入れられていたそうです。
彼女のパリへの想いは更にエスカレートし、ピッティ宮を逃げ出し、ポッジョ・ア・カイアーノの別荘へと篭ってしまいます。公用でピサを訪れていた際には、宿泊先の宮殿の窓からジプシーと「パリへの脱走作戦」を企てていた所を見張りに見つかってしまいます(苦笑)。
彼女のモーレツぶりは、とどまることを知らず、姑であるフェルディナンド2世は、嫁の気分を落ち着かせるために、息子のコジモ3世を度々ヨーロッパ各国の旅行へと出します。
こんな状況の中、1667年から71年の4年間の間に、2男1女を出産します。子供の世話や教育には全く無関心で、他人任せだったようです・・・。
「フィレンツェに居るぐらいだったら、パリに帰って修道院に入ったほうがましだっ!」とまで言い放ったマルゲリータの13年間続いたモーレツ振りに、とうとう、フランス国王もコジモ3世も疲れ果て、根負けします。フィレンツェへの嫁入りから13年後の1774年にフランス国王よりパリへ戻ることが許されます。マルゲリータは断言したとおりに、パリ、モンマルトルの修道院に入ります。修道院とはいえ、中に来客用のサロンを作ったり、外部からも訪問ができるように規則を変えたりして、かなり自由気ままな生活を送っていたようです。別居をしているとはいえ、トスカーナ大公夫人であるので、多額の年金もフィレンツェから毎年支払われていたそうなんですよ。
きっと、フランス国王も、コジモ3世もこれでホッとしたんでしょうね。(苦笑)。その後はモンマルトルの修道女達が大変だったんだろうなあ(爆)
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最後の代となる、コジモ3世の3人の子供(2男、1女)のそれぞれに全く子供が生まれなかったのが原因です。勿論、親戚同士で結婚しすぎてしまった結果、健康体ではなかったということも1つの原因ですが、それは娘のアンナマリアにのみ当てはまるようです。他の2人の息子達はそれ以前の問題だったようで、それについてはまた次回お伝えしますね。


さて、当時「ヨーロッパで結婚したい姫ランキング1位」であったマルゲリータ・ルイーザ(画像上右)は、従兄弟であるフランス国王との縁談もあったほどでした。トスカーナ大公フェルディナンド2世は、自分の息子であるコジモ3世(画像上左)の嫁にふさわしいかどうか調査をするために、大使をパリに送ります。そしてパリ駐在大使より「容姿は勿論のこと、姫は性格がとても良く、辛抱強く、根気があります」というレポートがフィレンツェに届きます(この全く事実に基づかないコメントが、後で大変な惨事を引き起こすのですが)。
マルゲリータはフィレンツェからの縁談をすぐに断ります(といってもこういった縁談の場合、本人の主張は余り尊重されないのですが・・・)。彼女がパリを離れたくなかった理由には・・・

←ロレーヌ公カール5世という恋人がいたからなのでした(キラ~ン・カッコいいかも)。
確かに、引きこもりがちで、唯一の趣味は「レリークイエ(聖人の衣服や遺体の一部)コレクション」、話し相手は常に聖職者のみというコジモ3世と、花の都パリでの華やかな生活に慣れたマルゲリータの2人には大きな違いがありすぎですよね。
従兄弟であるフランス国王にもパリに残りたいと懇願したものの、結局は縁談がまとまり、マルゲリータはフィレンツェに嫁いできます。
結婚記念の銀食器のセットをポイッとお付き役のフランス貴婦人にあげてしまったり、コジモ3世が自分の部屋に入ってくるのを禁じたり(汗)、イタリア語は全く使わず、回りをフランス人の側近で固めて、ピッティ宮殿の宮廷ではかなり異色な存在だったそうです。
その後、マルゲリータの所有物として、銀のコインが見つかったそうなのですが、その内側は空洞になっていて↑恋人のカール5世の小さな肖像画が中に入れられていたそうです。
彼女のパリへの想いは更にエスカレートし、ピッティ宮を逃げ出し、ポッジョ・ア・カイアーノの別荘へと篭ってしまいます。公用でピサを訪れていた際には、宿泊先の宮殿の窓からジプシーと「パリへの脱走作戦」を企てていた所を見張りに見つかってしまいます(苦笑)。
彼女のモーレツぶりは、とどまることを知らず、姑であるフェルディナンド2世は、嫁の気分を落ち着かせるために、息子のコジモ3世を度々ヨーロッパ各国の旅行へと出します。
こんな状況の中、1667年から71年の4年間の間に、2男1女を出産します。子供の世話や教育には全く無関心で、他人任せだったようです・・・。
「フィレンツェに居るぐらいだったら、パリに帰って修道院に入ったほうがましだっ!」とまで言い放ったマルゲリータの13年間続いたモーレツ振りに、とうとう、フランス国王もコジモ3世も疲れ果て、根負けします。フィレンツェへの嫁入りから13年後の1774年にフランス国王よりパリへ戻ることが許されます。マルゲリータは断言したとおりに、パリ、モンマルトルの修道院に入ります。修道院とはいえ、中に来客用のサロンを作ったり、外部からも訪問ができるように規則を変えたりして、かなり自由気ままな生活を送っていたようです。別居をしているとはいえ、トスカーナ大公夫人であるので、多額の年金もフィレンツェから毎年支払われていたそうなんですよ。
きっと、フランス国王も、コジモ3世もこれでホッとしたんでしょうね。(苦笑)。その後はモンマルトルの修道女達が大変だったんだろうなあ(爆)
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ちほさんのお話は楽しくて一気に引き込まれてしまいます。今年の春のカルミーネ教会のおはなし。プリントアウトして小さなおしゃれな色の表紙の本にしました。教会や繪が大好きで、色々出かけていた友人で、お母様94才になられ、あまり外国など出られなくなった方に、これを送ったら本当に感激してくださいました。これからメジチ家の女性のお話も素敵な本にしたいと思っています。世界に一つしかない素敵な本。ちほさんに印税払いたいのですが。何時か本当の本に誰か出版して欲しいです。
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chihoさん、こんにちは♪
コジモ3世の結婚に関するお話は初めてだったので、とても面白く
読ませて頂きました。
いつもながらの政略結婚ですが・・それにしても粘りに粘って、
自分の意思を押し通して、結局パリに帰れたのは時代背景が
変わってきたから可能だったのでしょうか・・
それともメディチ家の勢力が弱まっていた証拠なのでしょうか。
しかし、肖像画で見た限りでもコジモ3世とカール5世では
どちらがカッコいいか・・残念ながら明白ですねぇ。笑
コジモ3世の結婚に関するお話は初めてだったので、とても面白く
読ませて頂きました。
いつもながらの政略結婚ですが・・それにしても粘りに粘って、
自分の意思を押し通して、結局パリに帰れたのは時代背景が
変わってきたから可能だったのでしょうか・・
それともメディチ家の勢力が弱まっていた証拠なのでしょうか。
しかし、肖像画で見た限りでもコジモ3世とカール5世では
どちらがカッコいいか・・残念ながら明白ですねぇ。笑
musicaさん>何とも嬉しいコメントを有難うございます。私のこんな独りよがりな小話を楽しみにしてくださっているなんてとても光栄です。そして、musicaさんを通じて、ご友人のお母様にまで喜んでいただいているなんて感激です。いつか小さなポケットサイズのガイドブックを出版したいなあなんておもっています(コッソリ)
sarah000329さん>ははは、そうそう、大昔から聖人の衣服や遺体の一部を取引する闇のマーケットが存在していたそうなんですよ。殆どは贋物だったそうですが。だって、「聖フランチェスコの聖骨」などは、かなり多くの教会が所蔵していて、それが全部本物だったら一体どの位の巨人だったのだろう?という程です(爆)
カバン持ちさん>そうなんですよね。同感!トスカーナ大公夫人が「別居」なんて、しかもフィレンツェを離れてパリに帰るなんて、コジモ1世の時代にはありえないことだったのでは?と思うんです。個人の意思とか自由という考え方が生まれてきた時代背景もあるんでしょうね。