
さて、祭壇に向かって右側にあるのは、「ヌムール公ジュリアーノ・ディ・メディチの墓」。
彼は、ロレンツォ豪華王の三男で、レオ10世としてローマ教皇となるジョヴァンニの弟です。
彼の名についているヌムールとは、フランスのNemoursという街のこと。サヴォイア家出身の公女と結婚し、ヌムール公位を継承したことからこの名称で呼ばれます。
ロレンツォ豪華王の死後、1494年、メディチ家は、フィレンツェに迫るフランス軍の脅威に怯え市民が混乱する中、長男のピエロに反感を持つフィレンツェの共和国政府により追放されてしまいます。当時、ジュリアーノ15歳。その名をヨーロッパ中にとどろかせたメディチ家のメンバーとして、ヨーロッパの各宮廷では手厚く保護を受けたようです。各国を亡命中に、長男でメディチ家当主であったピエロは溺死し、フィレンツェに戻ることはありませんでした。
スペイン軍と協力してイタリア各国がフランス軍を追い払うと、フィレンツェ市民も安堵し、1512年、追放から18年後にやっとメディチ家のメンバーがフィレンツェに戻ることが許されます。当時、ジュリアーノ33歳。
フィレンツェに戻ったジュリアーノは、亡くなるまでの数年間、メディチ家の当主となります。芸術を愛し、レオナルド・ダ・ヴィンチやラッファエッロとの親しく交流していたので、「モナリザ」をレオナルドに依頼した人物ではないか?とも言われています。


左はラファエッロ作「ヌムール公ジュリアーノ・ディ・メディチの肖像」。後方のカーテンの隙間からはローマのサンタンジェロ城が見えています。
たった7年間の当主を務めたジュリアーノは1516年に40歳の若さで亡くなります。
それにしても、似ていないですよね(爆)。ミケランジェロがこの像を制作した当時も、周囲から「似ていない!」との指摘があったそうですが、ミケランジェロは「1000年経ったら、誰も、ジュリアーノのことは覚えていないさ」と答えたそうです。でも、1000年経っても彫像は残るって思っていたんだろうなあ。この頃、ローマでは古代の彫刻の発掘が始まった頃だったので、ミケランジェロ自身も、こうした彫像が後世まで残るということを意識していたんでしょうね。

手には戦闘の指揮棒を持ち、「行動力」を表しています。片手にコインを持っているそうで、これは「寛大さ」を表しているそうです。

今もジュリアーノの亡骸が納められている棺の上に座って眠る女性は、「夜」のアレゴリー像。色々な解釈がありますが、それはまたいつかの機会にということで・・・。それにしても、ミケランジェロ、女性の裸体には全く興味がなかったようですね(苦笑)。お腹がだぶついています。
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こんにちは。
いつも不思議に思っているのですが、この 新聖具室の彫像には、ピカピカに磨き上げられた部分と ノミの痕が残る荒削りな部分がありますよね。
たしか ミケランジェロは 命と引き換えにこの像を彫ったと記憶しているのですが、そのミケランジェロが手抜きをするとは思えないし・・・何か荒削りのまま残した理由があるのでしょうか?
理由をご存知でしたら お教え下さい。
しかし、この夜さんは、どう見ても男性ですね〜 肉体改造中のニューハーフ?(笑)
いつも不思議に思っているのですが、この 新聖具室の彫像には、ピカピカに磨き上げられた部分と ノミの痕が残る荒削りな部分がありますよね。
たしか ミケランジェロは 命と引き換えにこの像を彫ったと記憶しているのですが、そのミケランジェロが手抜きをするとは思えないし・・・何か荒削りのまま残した理由があるのでしょうか?
理由をご存知でしたら お教え下さい。
しかし、この夜さんは、どう見ても男性ですね〜 肉体改造中のニューハーフ?(笑)
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まんまるさん>ミケランジェロがこの彫像群を彫っていた頃、フィレンツェでは再度、メディチ家が追放され、対メディチの共和国軍VSメディチ家出身のローマ教皇の激しい戦いが繰り広げられた時期です。その後、ミケランジェロはこの聖具室を未完のまま残し、ローマに旅立ってしまい、二度とフィレンツェに戻らなかったので、未完なんですよ。詳しくはまた次回、ブログに描きますね。
n_homeさん>うんうん、この当時、ミケランジェロ自身もローマの古代遺跡の発掘に立ち会ったりしているので、きっと後世に残るということは感じていたのでしょうね。