
コジモ3世の長女として1667年に生まれた彼女は、パリに戻ってしまった母親が不在のまま、他の2人の兄弟と共に乳母によって育てられます。彼女の幼少時代、しばしば、ピッティ宮のボボリ庭園を祖母ヴィットーリア・デッレ・ローヴェレと散歩していたそうです。
1690年に23歳で(結構晩婚?)プファルツ選帝侯ヨハン・ヴェルヘルム(当時32歳)の後妻として、ドイツのドュッセルドルフに嫁ぎます。新郎は新婦の到着を待ちきれずに、インスブルグまで迎えに行ったそうなんですよ。この時代、結婚前に見ることが出来るのは肖像画のみというケースが多かったそうです。ヨハンは、大きな瞳と美しい黒髪、白い肌のアンナ・マリアルイーザが肖像画どおりであったことを確認します(笑)。
二人は、子宝に恵まれなかったことを除いては、幸せな結婚生活を送ります。

選帝侯妃として、ドュッセルドルフの宮廷を仕切り、幸せな毎日を送っていたアンナ・マリアルイーザですが、1716年に夫ヨハン・ヴェルヘルムの死により、再びフィレンツェへと戻ります。
彼女が戻ったフィレンツェには、年老いたコジモ3世(この7年後に亡くなります)、寝たきりのフェルディナンド(この年に亡くなります)、そしてボヘミアでの結婚に失敗しアル中になってフィレンツェに戻ってきていたジャンガストーネが待っていました。ジャンガストーネは自分の結婚の失敗を姉のせいにし、一方的にマリアルイーザと絶縁してしまいます。
もはやメディチ家の跡継ぎが生まれる可能性がないということが明確になると、ヨーロッパの主要国がトスカーナ公国の継承権をめぐり争います。そして結局は、ハプスブルグ家ーロレーヌ公(ロートリンゲン公)がトスカーナ公国を継承することとなります。
1737年のジャンガストーネの死により、ロレーヌ公フランツ1世(マリア・テレジアの夫、マリーアントワネットの父)がトスカーナ大公の位を引き継ぎます。フランツ1世自体は、ウィーンに住み続け、フィレンツェには殆ど滞在しないのですが、トスカーナの政治を行う官僚は全てオーストリア人となります。
こうして、「最後のメディチ」アンナ・マリアルイーザと、ウィーンからやって来たオーストリア人達がピッティ宮で「同居」することとなるのです。
さて、どうなることやら、続きは後程・・・
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歴史に詳しくない私が フィレンツェ小話はいつもワクワク楽しく読ませてもらってます。
また フィレンツェに行きたくなってしまいます。
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
lilytandogさん>叉いつかフィレンツェにいらして下さいね~。フィレンツェ小話の次回はいよいよ最後のメディチ、「マリアルイーザ・ディ・メディチ対オーストリア人」です。
鍵コメtさん>分野によってはお力になれないかもしれませんが、宜しければメインサイトよりメールでご相談ください。お力になれれば光栄です。