フィレンツェ田舎生活便り2

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フィレンツェで山暮らしをするchihoの田舎便りです。フィレンツェの街歩き情報、イタリア風家庭菜園、お勧めレストラン現地情報、日帰りで行ける街の情報など。フィレンツェの滞在型アパートの紹介サイト「ラ・カーサ・ミーア」を運営しています。

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カテゴリ:フィレンツェ小話( 43 )

昨日、フィレンツェに仕事で行った際にウフィッツィ美術館とアカデミア美術館の前を通ったのですが、本当に凄い行列でした。予約をした人の列もかなり長かったです。やはり、月曜日が休館ということもあり、火曜日は混みやすいのでしょう。9月、10月にフィレンツェにいらっしゃる場合には、火曜日以外の日に、ウフィッツィ美術館とアカデミア美術館の予約を入れられることをお勧めします。


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さて、こちらはローマのバチカン美術館に所蔵されている、ラオコーン像。実は今、ローマの遺跡の発掘に関する本を読んでいて、その本の中でも、ネロ皇帝の住居であったドムス・アウレア近くで1506年この像が発見された当時の様子が描かれています。こんな大きな像が地中から出てきたら、きっと相当びっくりするでしょうね。


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中心にいるのは父親のラオコーン、そして右と左は彼の二人の息子たちです。
ラオコーンは、トロイアの神官です。ギリシャ人が木馬の中に隠れ、トロイアの城壁の外に放置すると、これがギリシャ人の戦略であるのでは?と疑ったラオコーンは木馬に槍を投げつけます。ギリシャ人の戦略を暴かれまいと、ゼウス神と女神アテナは、ポセイドンの使いである海蛇を送りつけ、ラオコーンと息子たちを殺害します。この像は、ラオコーン親子が海蛇に噛まれているところ。神の怒りにふれると怖い・・・(特にギリシャ神・苦笑)。

制作年代は確定していませんが、恐らく紀元前40年から20年にギリシャ人により制作されたのでは?と言われています。
1500年代に、こんな素晴らしい彫像が出土したら、当時のルネサンスの彫刻家たちもかなり自信を失ってしまったのかも?と余計な心配をしてしまいます。ミケランジェロの1500年近くも前にギリシャ人たちがこんなに素晴らしい彫像をつくっていたんですもんね。
実はこの彫像のコピーがフィレンツェのウフィッツィ美術館にも保存されています。


f0106597_2023556.jpgこの像が出土すると、ローマ教皇ユリウス2世は彫刻家ミケランジェロと建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロを呼び、像の評価をさせ、この像を購入します。
その後、1515年マリニャーノ(ミラノの近郊)の戦いで勝利したフランス国王フランソワ1世は戦利品としてこの像を要求しますが、当時のローマ教皇レオ10世(画像左)は彫刻家にコピー品を作らせ、結局はそのコピー品すら送らずにフランス王の要求を無視します(苦笑)。
この時に作られたコピー品が現在、フィレンツェのフィッツィ美術館に所蔵されているのです(ぐるりと回り込んだ3番目の廊下にあります)

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by lacasamia3 | 2010-09-29 20:58 | フィレンツェ小話 | Comments(6)
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先日、私が所属している「ウフィッツィ友の会」の会報が届きました。その中で、ちょっと面白いエピソードが掲載されていたので、久しぶりにフィレンツェの小話としてご紹介します。
フィレンツェでは、2010年9月24日から2011年1月23日まで、ストロッツィ宮殿にて、アーニョロ・ブロンズィーノの大きな展覧会が開催されます。ブロンズィーノの作品のほぼ70%が集まるという、中々貴重な機会。この期間は、多くの作品がウフィッツィ美術館からこの企画展に貸し出されるので、フィレンツェがもっとも栄えた時代、コジモ1世お抱えの画家として活躍したブロンズィーノの作品が目当ての方は、こちらの展覧会も訪れられると良いでしょう。
さて、上の肖像画は、バルトロメオ・パンチャーティキの肖像。裕福な商人の家庭に生まれた彼は、家業には余り興味を示さず、政治学と人文学にのめりこみます。1534年にルクレツィア・プッチと結婚した後(写真下)、コジモ1世により、フランス宮廷との関係を改善すべく、大使としてフランスへ送られます。
所が、フランスに滞在中、ルターが主導する宗教改革に多きな影響を受け、フィレンツェに戻った後、プロテスタント派の運動に参加し、それが元で、異端者とみなされ、投獄されてしまいます。その後、多額の保釈金を支払い、牢獄からは出て、メディチ家の庇護の元、政治家とし余生を送るのです。

一見、温厚そうな顔つきですが、手を見ると・・・彼の内面に隠された熱狂的な性格、周りの弾圧に屈しない頑固さが何となく感じ取れるような気がします。


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さて、彼女はバルトロメオ・パンチャーティキの妻ルクレツィア・プッチ。フィレンツェの名家プッチ家生まれの彼女の肖像にはある「秘密」が隠されているのかもしれません。
その秘密とは、メディチ家当主コジモ1世との隠された恋。
首にかけた金の鎖には、"amour dure sans fin" (終わりのない愛)という文字が刻まれています。このメッセージは一体誰に向けられたものだったのでしょう?


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1536年、コジモ1世に庶子ビア(画像下)が生まれます。母親は誰か明かされず、コジモ1世がすぐに引き取り、自分の子供として育てるのです。彼が正妻エレオノーラ・ディ・トレドと結婚するのが1539年なので、彼は結婚前の3年間と、その後も、別の女性との間に生まれたビアを大切に育てます。

この女性というのが、ルクレツィア・プッチだったのでは?というのが今回面白かった仮説。勿論、何を元に立てられた説なのかは判らないので、はなはだ疑わしいのではありますが、こうして色々想像するのも1つの楽しみ。
こうして、再度、上のルクレツィア・プッチの肖像を見ると、「実らなかった恋を過去に持つ女性」という感じがします。そして、金の鎖に刻まれた「終わりのない愛」は、コジモ1世に向けられたものだったのか?あるいは、生まれてすぐに引き離されてしまった娘ビアに向けられたものだったのか?想像は膨らむばかりです。


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↑これがビア。コジモ1世はビアがとてもお気に入りで、公務にもしょっちゅう連れて出ていたそうです。所が、この愛くるしい少女は、残念ながら5歳で亡くなってしまうのです。きっと、彼女の死後、コジモ1世は、この肖像画を何度も眺めていたことでしょう。


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彼女はコジモ1世の正妻、エレオノーラ・ディ・トレド。結婚前から結婚後も、ビアを自らの子供のように育てます。控えめで、表に出ることを嫌っていたそうです。でも彼女の肖像を見ていると、子供にはきっと優しかったのだろうなあと思ってしまいます(勝手な印象ですが)。
メディチ家の夫人の中では一番エレガントだと思う女性。ファッションのセンスも抜群です。

肖像画もなかなか奥が深いです。

今回ご紹介したブロンズィーノ作の肖像画はすべてウフィッツィ美術館所蔵です。これら全部がストロッツィ宮殿に貸し出されるかどうかは未だ判りませんが、その可能性が大きいと思います。

アーニョロ・ブロンズィーノ展
2010年9月24日から2011年1月23日 
ストロッツィ宮殿
使用済みのウフィッツィ美術館の入場券やバス会社ATAFのチケットを見せると入場料が割引になります。



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by lacasamia3 | 2010-09-11 05:07 | フィレンツェ小話 | Comments(11)
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ロレンツォ豪華王の4歳年下の弟ジュリアーノ(1453-1478 画像上左)は、政治的手腕に長けたロレンツォとは違い、どちらかというと、音楽や芸術を好み、誰からも愛される性格であったそうです。彼もまた、ある人妻に恋をします。相手は、ジェノヴァ出身でフィレンツェのヴェスプッチ家に嫁いだ女性シモネッタ・ヴェスプッチ(1453-1476 画像上右)。彼女の夫は、アメリゴ・ヴェスプッチの従兄弟にあたります。
シモネッタは当時のフィレンツェでは珍しい、碧眼金髪の美女。フィレンツェに到着後、彼女の美貌はフィレンツェ人の間で評判となり、"la stella di Genova"(ジェノヴァの星)と呼ばれます。
そして同じく、メディチ家の次男ジュリアーノも、人柄と美貌でフィレンツェの人々に人気がありました。周りのフィレンツェ人は、「ああ、この二人をくっつけたい」と余計なことを考えていたのでしょう(シモネッタには旦那さんが居るのですが・・・ポリポリ)。実際、本人同士はどうだったのかは??なのですが。


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1475年に再度、サンタクローチェ広場で馬上試合が行われます。1469年に行われたトーナメントと共に、この催しは、その豪華さから、後世にも「フィレンツェのルネサンス期でもっとも素晴らしいイベント」と伝わります。1475年のトーナメントはジュリアーノ・ディ・メディチが全てをオーガナイズし、プリマドンナとして、シモネッタが豪華な衣装を身に着け登場するのです。
上の画像は更に時代が下ったサンタクローチェ広場での馬上試合の様子です。


f0106597_161137.jpgシモネッタの美しさは画家の間でも評判になり、彼女のいくつかの肖像画が今も残っています。
所が、歴史的な大成功を収めた馬上試合から1年後、シモネッタは23歳の若さで肺結核を患い、亡くなってしまいます。フィレンツェ中が彼女の早すぎる死を嘆き、彼女の死後も数々の肖像が描かれます。

そしてその2年後、ジュリアーノもまた、「パッツィ家の陰謀」によりフィレンツェのドゥオーモ内で暗殺されてしまいます。(しかも、シモネッタが亡くなったのが1476年4月27日、ジュリアーノが亡くなったのは1478年4月26日と、1日違いなんです・汗)


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彼女を愛したボッティチェッリはその後も彼女の肖像を描き続けます。そして、有名な「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスはシモネッタがモデルであると言われています。彼は「自分が死んだらシモネッタが眠るオンニサンティ教会のヴェスプッチ家の墓の下に埋めて欲しい」と伝え、その通り、オンニサンティ教会に埋葬されます。

余りにイメージ画像が溢れすぎて、素直な眼で鑑賞しにくいボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」ですが、モデルが居たと思うと、なんとなく身近な感じで見ることが出来そうです。

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by lacasamia3 | 2010-04-12 01:45 | フィレンツェ小話 | Comments(10)
今日はあいにく雨のフィレンツェ。昨日のうちに土おこしと種まきをしておいて良かった~。こんな日は、ユキちゃんの宿題を見ながら、のんびりとブログを書くに限ります。
ここ数日、メディチ・リッカルディ宮である現代アーチストの小さな展覧会が行われています。それをヒントに、少しだけロレンツォ豪華王と弟のジュリアーノ、そして二人の女性について書いてみたいと思います。


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ロレンツォ豪華王(ロレンツォ・イル・マニーフィコ 1449-1492)は、フィレンツェで今もなお、「ロレンツォ」という名前が男の子につける名前の人気ナンバーワンであるほど、変わらない人気のある歴史的人物です。
フィレンツェがもっとも華やかで美しい初期ルネサンス期を生きた彼は、その巧みな政治的手腕だけでなく、文芸を愛し、ヨーロッパ文化の文芸復興に大いに貢献したと言われています。青年時代のロレンツォとジュリアーノ兄弟は、当時のフィレンツェのアイドルだったそうです(笑)。
当時の華やかなフィレンツェでは、ロレンツォ&ジュリアーノ兄弟と、ある二人の女性が注目の的でした。一人は、フィレンツェの名家の娘ルクレツィア・ドナーティです。

f0106597_2145165.jpgまだ独身であったロレンツォ(当時17歳 写真左)は、ある女性のお葬式で、ルクレツィア・ドナーティと偶然出会い、お互いに一目ぼれをします。でも、彼より2歳年上のルクレツィアは既婚の身でした(涙)。ナポリとフィレンツェの貿易で大規模に事業を行っていたルクレツィアの夫はフィレンツェに滅多に帰らず、ルクレツィアの結婚生活はそれ程幸せなものではなかったようです。彼女自身は芸術、音楽を愛し、容姿も美しく、ファッションのセンスにも長けていたと言われる人物。

当時、ロレンツォは弟ジュリアーノと共に、1465年頃からフィレンツェ郊外のカステッロというメディチ家の別荘にてしばしば集まっていたプラトン・アカデミーという、当時の人文主義者や芸術家の集まりに参加します。その集まりでは、古代ギリシャの哲学者プラトンの説に基づくプラトニックな愛(崇高の愛)についてしばしば語られるのです。

ロレンツォとルクレツィアの交友はその後も続きます。1469年に、ロレンツォ豪華王とクラリス・オルシー二の婚約を記念してサンタクローチェ広場で行われた馬上試合では、"la regina della giostra"(トーナメントの女王)として、豪華な衣装を身に着けたルクレツィア・ドナーティが登場し、試合に優勝したロレンツォ豪華王は、自分の銀製の兜をルクレツィアに捧げます。

また、ロレンツォは自ら書いた詩の中でも、ルクレツィアに対する「プラトニックな愛」を詠っており、友人の間でも、オープンに告白していたそうです(汗)。何とも大らかな初期ルネサンス期のフィレンツェ。

そして次は、ロレンツォの弟ジュリアーノとあるもう一人の女性のラブストーリーについて書きますね。

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by lacasamia3 | 2010-04-11 21:13 | フィレンツェ小話 | Comments(2)
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今日フィレンツェに行ったら街はすっかりクリスマスの雰囲気でした。日本に比べると控えめな省エネイルミネーションですが(苦笑)、良く見ていると、街中の教会に古くから残る天使や聖人の装飾があるので、それらを見ているとじんわりとクリスマスの気分になってきます。今の時期、フィレンツェにいらっしゃる方は、町中の天使たちを探してみてくださいね。


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さて、↑はレプッブリカ広場。ここは、ローマ時代には浴場があり、中世以降は市場があった場所です。
市場という場所柄か、真ん中には、1431年に、柱の上に乗ったドナテッロ作の「豊穣」のアレゴリー(女性像)が立てられます。ところが、この像は1700年代初頭に落下してしまい(汗)、現在広場に残っているのは1721年に作られた複製です。耐久年数が300年っていうのは短いのでしょうか?長いのでしょうか?(笑)

フィレンツェで落下した彫像はこれだけではありません。


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現在はオリジナルはアカデミア美術館に保管されているミケランジェロ作のダヴィデ像。もとあったヴェッキオ宮殿の正面入り口前に現在置かれているのは複製です。
1527年、メディチ家に対する抵抗運動の騒ぎの中、誰かがヴェッキオ宮殿内から長椅子を外に投げます。これがダヴィデ像に当たってしまい、左腕が落下します。言い伝えでは、当時まだ若かったジョルジョ・ヴァザーリが破片を拾い集め修復させたそうです。
所が、1544年、コジモ1世の謁見を一目見ようと集まった群衆の前で、左腕が再度落下します。この時、丁度真下に居た農夫が亡くなったそうです。確かに、巨大ですもんね。大理石ってかなり重いから、こんな塊が頭上から落ちてきたらそれは大変です。

ルネサンスの街だけに、フィレンツェで落下するものは色々です。

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by lacasamia3 | 2009-12-10 01:39 | フィレンツェ小話 | Comments(7)

ミケランジェロの落書き

f0106597_252028.jpg木曜日は久しぶりにフィレンツェに行ってきました。最近のフィレンツェは何だか暖かいんです。昼間、お天気だとコートも要らないくらい。でも通常は、もっと寒いので、平年通りの気温に戻ったら、やはりコートは必要です。
観光ローシーズンで、フィレンツェの街中が空いているこの時期、のんびりとお散歩をするのは楽しいものです。シニョリーア広場も広々としているし、ウフィッツィ美術館も全く行列がなく、一般口でもスルーで入れていました。


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1枚目の写真は、中世から常にフィレンツェの政治の中心が置かれている(今も)ヴェッキオ宮殿。
レプリカのダヴィデ像の前で記念写真を撮っている人は多いのですが、その右横、エルコレ像の裏側の壁面に彫られた横顔を見る人は少ないようです。


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言い伝えでは、この横顔はミケランジェロが彫ったと言われています。横顔は死刑囚のもの、またはミケランジェロにお金を貸していた人のものなどなど・・・色々な言い伝えがあり、ミケランジェロが壁に寄りかかりながら腋に挟んだノミで後ろ向きのまま彫ったと言われています。
少なくとも、由緒あるヴェッキオ宮殿のこの落書きが消されずにそのまま残っているというのは、やはり彫った主が巨匠ミケランジェロだからなのでしょうね。

ホントか唯の言い伝えなのかは判らないけれど、こういうものを大事に保存するフィレンツェ人って面白いなあって思います。

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by lacasamia3 | 2009-11-23 03:48 | フィレンツェ小話 | Comments(18)
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我が家の近くにプラトリーノという小さな村があります。この村には、Villa Demidoff(ヴィッラ・デミドフ)と呼ばれる元メディチ家の別荘であった場所が残っています。
1568年にフランチェスコ1世(コジモ1世の息子)によって購入され、彼と後妻のビアンカ・カペッロお気に入りの別荘となるのです。物理、化学オタクであったフランチェスコは、この別荘で様々な実験を行います。↑の絵でも見られるとおり、傾斜する地形を活かして噴水から水を流し、水力を利用して機械仕掛けのミニシアターを作ったり、秘密の植物園を作って、海外から取り寄せた珍しい植物を育てたりしていたそうです。
残念ながら、メディチ家が途絶えた後、ロレーヌ家に所有が渡った後は、野ざらしにされ、建造物はすべて失われてしまいます。その後、1837年にロシアの貴族デミドフ家により購入された以後、デミドフ邸と呼ばれるようになります。


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フランチェスコ1世の時代を思い起こさせる唯一の作品が、この"Colosso di Appennino"(アペンニーノの巨人)。アペニン山脈の巨人というこの作品のいわれは、調べたのですが判りませんでした。でも、関連があるかな?と思ったのは、メディチ家の紋章についてのある伝説。
メディチ家出身の騎士アヴェラルド・デイ・メディチがアペニン山脈に住む悪い巨人を倒します。巨人は死ぬ前に、鉄の棒に玉をつけた武器をアヴェラルドへと投げ返します。アヴェラルドの盾に玉の跡がついたことから、メディチ家の紋章になったという伝説です。恐らく、フランチェスコ1世もこの伝説は良く知っていたでしょうから、彼がジャンボローニャに作らせたのは、もしかしたらメディチ家の先祖に倒されたアペニン山脈の巨人なのかも知れません。
メディチ家の紋章については、medici=medicina(薬)に由来し、当時、既に早い時期からメディチ家が東方から薬草の輸入に携わっていたために、紋章の玉は丸薬を表すという説もあります。


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ちょっと前に遠足でこの公園を訪れたユキちゃん。↑こんな絵を描きました。


f0106597_1924973.jpg記憶をたどって描いたので、前に池があったことなどすっかりと忘れていますが、ユキちゃんにとっては、緑溢れる静寂の中で巨大な像がポツンと座っている所が印象に残ったんだろうなあ・・・

ユキちゃんの巨人はなんともくつろいでいます(笑)

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by lacasamia3 | 2009-11-05 19:29 | フィレンツェ小話 | Comments(14)
f0106597_19421459.jpgフィレンツェのシニョリーア広場には、今も市政の中心であるヴェッキオ宮殿がそびえ立っています。そしてその向かいにあるのが、ロッジャ・デイ・ランツィ。


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画家であり建築家であったオルカーニャにより1350年に建設が開始されたロッジャは、オルカーニャの死後、1376年に完成します。以後、市の公式行事に利用されていたそうです。
その後、アレッサンドロ・デイ・メディチにより護衛兵の兵舎として利用され、コジモ1世の時代以降現在までは、彫刻ギャラリーとして利用され続けています。


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ロッジャについて書き始めるとキリがないので、今回は是非フィレンツェにいらしたらみていただきたい傑作の1つ、ベンヴェヌート・チェッリーニ作「ペルセウス像」(1554年)をご紹介します。ロッジャにある作品は、複製ではなくオリジナルなんですよ。一方、台座は複製で、オリジナルはバルジェッロ博物館に展示されています。

乱闘事件を起こして街を追放されたり、ローマの略奪の際にローマ教皇クレメンス7世を守るため、ある貴族を刺殺したり、その後、ローマ教皇パウルス3世の不評を買い、サンタンジェロ城に幽閉されたりと波乱万丈の人生を送ったチェッリーニ。
その後、フランスでフランソワ1世(カテリーナ・メディチの姑)に仕えた後、フィレンツェに帰国し、コジモ1世の庇護を受けます。


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この作品は、コジモ1世がチェッリーニに発注したもの。コジモ1世がフィレンツェを治め、トスカーナ公になった象徴として、この題材を選んだそうです。
共和国の「首」をはねるコジモ1世といったところでしょうか。メドューサ(=共和国)の首元からは、蛇(=様々な市民の意見の相違、不和)が這い出しています。

こんな作品を、それまで共和国政府の中心であったヴェッキオ宮殿の真向かいに置いてしまうなんて意味深な作品ですよね。


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幼さを残した青年ペルセウスが冷たい表情でメドューサの首を掲げるなんて、かなりショッキングな作品です(汗)。


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台座もチェッリーニ作。ダークでしょ(笑)。ジャンル的にはへヴィーメタルっぽい?


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この像の前で記念撮影をする人はいるのですが、後ろに回って見る人は殆どいません。
所が、是非後ろから見ていただきたいのです。
見えますか?ペルセウスの後頭部(画像左)は、チェッリーニ本人(画像右)の顔になっているんです。ペルセウスの髪の毛がチェッリーニのひげになっていて、ヘルメットが顔みたいに見ええませんか?これはチェッリーニの自画像だと言われています。
隠された彼の遊び心なんでしょうね。

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by lacasamia3 | 2009-02-13 20:09 | フィレンツェ小話 | Comments(10)
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最近、フィレンツェの歴史の本を読み漁っていると、フィレンツェに住んでいても、知らないことって沢山あるんだなあと感じます。
左は、フィレンツェの「花の大聖堂」と呼ばれるドゥオーモ。正面と鐘楼側の脇には団体ツアーのグループが沢山通るのですが、真後ろから観察している人は殆ど居ません。
所が、このドゥオーモの真後ろの石畳には、歴史上のある小さな出来事が印されているんですよ。
1492年、嵐のある日に、ドゥオーモのクーポラのてっぺんに取り付けられていた十字架が付いた金の玉が落下します。後に、同年に亡くなったコジモ豪華王の死を予告する出来事だったと言われます。


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当時、玉が落下した場所には円形の白大理石が埋め込まれ、それは今も見ることが出来ます。何の説明も札もないので、見過ごしてしまいそうな印しですが、フィレンツェにいらしたらぜひ見てみてください。
金の玉は再度1600年に落下し(苦笑)、その後は現在もドゥオーモのクーポラのてっぺんで輝き続けています。


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上の左の写真は現在のヴェッキオ宮殿。そして右の画像は、1498年にドメニコ派修道士ジロラモ・サヴォナローラが処刑された時のシニョリーア広場です。


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サヴォナローラはサンマルコ修道院長を務めた後、贅沢な市民生活を批判し、「虚栄の焼却」という運動を起こした人物です。彼は支援者を引き連れ、町中の美術品や工芸品などを市民から略奪し、このシニョリーア広場で焼いてしまうのでした。
ローマ教皇をも批判したことが原因で異端審問にかけられ、結局は有罪となり、拷問、絞首刑の後、シニョリーア広場で焼かれ、その灰はアルノ河に捨てられてしまうのです(汗)。
現在も、ヴェッキオ宮殿前のネプチューンの噴水の前あたりに、サヴォナローラが処刑された場所を印すメダルが埋め込まれています。


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↑この家は、「ダンテの家」と呼ばれている建物です。ダンテ・アリギエーリは「神曲」を書いた1300年代の詩人。実際には彼の家であったというわけではないのですが、同じ時代に建造され、当時のフィレンツェの建築様式を現在に伝える貴重な建物です。
それまで残っていた石壁や塔を利用してジュゼッペ・カステッルッチが1910年に修復します。


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1910年の修復の際に、石切り職人がコッソリと石畳に彫ったのが、←このダンテのプロフィールです。似てる?
ここも全く立て札や説明が書きがないので、殆どの人は気付かずに通り過ぎてしまいます。

歴史の痕跡がずっと残っているフィレンツェという街は、知れば知るほど面白いなあと思います。

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by lacasamia3 | 2009-01-30 20:07 | フィレンツェ小話 | Comments(17)
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さて、「最後のメディチ」、アンナマリア・ルイーザは、トスカーナ大公としてトスカーナ公国を継承したフランツ・シュテファンとマリア・テレジアによってのメディチ家の資産の流出を恐れ、ある条約を作成します。

1737年に、アンナマリア・ルイーザと新トスカーナ大公フランツ・シュテファンの両者により署名された"Patto di Famiglia"(パット・ディ・ファミーリア)という条約の中で彼女は、以下のような条件を提示しています。






以下に挙げられたメディチ家の資産を下記の条件の下、トスカーナ公国に寄付する

これらの資産は、トスカーナ公国外には持ち出してはならない
これらの資産は、外国人の興味を惹き、トスカーナ公国にとって有効な目的で利用されなくてはならない。


と明言しています。

彼女がメディチ家の資産として挙げたものは、

・ウフィッツィ美術館、ローマのパラッツォメディチ、ピッティ宮殿、その他のメディチ家の別荘に保管される全ての絵画と彫刻

・ウフィッツィ美術館の貴石保管室に保管されている全ての宝石

・バルジェッロ博物館に保存されているカメオ、アンティークのコイン、ロレンツォ豪華王のメダルなどのコレクション

・バルジェッロ博物館に保存されているドナテッロ、ヴェロッキオ、ミーノ・ダ・フィエーゾレ、その他の著名な彫刻家作の胸像、彫刻

・サンロレンツォの新聖具室とミケランジェロの傑作

・パラティーナ図書館とサンロレンツォのメディチ家図書館(ラウレンツィアーナ)に保存されている全ての書物

・エトルリア・エジプト博物館(現在の考古学博物館)に保存されている全てのコレクション

・バルジェッロ博物館に保存されているウルビーノとファエンツァの陶器コレクション、武器、甲冑のコレクション

・タペストリー博物館に保存されているタペストリーコレクション

・ピッティ宮とウフィッツィ美術館に保存されているモザイク製のテーブル、飾り箪笥、家具のコレクション

・ピッティ宮の「財宝の部屋」に保存されている金の果物皿、陶器、銀器、象牙とメノウの十字架、クレメンテ七世が保管していたミニアチュール、チェッリーニ作の壺、ワイングラス、その他メディチが所有していた全てのもの

・ピッティ宮トスカーナ大公の礼拝所に保存されている全ての聖具

・メディチ家が保存していた膨大なドレスのコレクション

彼女は、per utilità del Pubblico e per attirare la curiosità dei Forestieri「 「 (公共の益になるために、また外国人の興味を惹くために)利用されなくてはならない」と文中で明言しています。
1700年代に、既に「観光産業」の有効性に目をつけていたアンナマリア・ルイーザって、ホント凄いなあと思います。

1743年2月18日、彼女は76歳で亡くなります。彼女が亡くなった時、フィレンツェでは突風が吹いたそうです。彼女の死を惜しんだ人は、「最後のメディチの死を天が嘆き悲しんでいる」と言い、反メディチの人は、「悪魔が最後のメディチを連れ去った」と言ったそうです。

遠い先祖のジョヴァンニ・ディ・ビッチの誕生から数えて、約380年間、フィレンツェの街に生きたメディチ家の歴史はこうして幕を閉じるのでした(長かったっ・笑)。

この後、フィレンツェ小話は、そのままハプスブル家支配時代→ナポレオン登場時代→ハプスブルグ家復活時代→イタリア首都時代→近代へと続けていこうと思います。

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by lacasamia3 | 2009-01-27 18:22 | フィレンツェ小話 | Comments(15)