ガリレオとローマ教皇

地動説を唱えたガリレオがローマ教皇庁により裁判にかけられ有罪判決を受けた「ガリレオ裁判」は歴史上、よく知られています。現在では1616年と1633年に行われた2回の裁判については様々な説があるので、今回の記事は、1つの仮説として読んでいただければ幸いです。
最近、図書館で見つけた"LA SPLENDIDA STORIA DI FIRENZE" Piero Bargellini著に面白いエピソードが載っていたのでご紹介します。

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1610年頃から地動説を言及しはじめたガリレオは1616年に異端審問審査にかけられ、ローマ教皇庁は今後、地動説を唱えないようにとガリレオに命令します。
ところが、1623年、ガリレオの擁護者であり、彼と親交があったフィレンツェ人バルベリーニ司教がローマ教皇ウルバヌス8世(下画像左)として即位します。ガリレオはこれを好機にと考え、「天文対話」を書き始めます。この本は、直接的に地動説を訴えるのではなく、ガリレオの地動説を唱えるサルヴィアーティ、教会の天動説を唱えるシンプリチオ、司会者役のサグレードの3人の対話形式で構成されています。

ガリレオは「天文対話」の原稿をかかえてローマを訪れます。1616年の裁判は嘘のように、ローマでは教皇は勿論のこと、複数の擁護者の歓迎を受けます。貴族フェデリコ・チェーズィが自ら出版費用を負担し、ガリレオの本をローマで刊行する申し出をします。原稿はローマ教皇庁に提出され、数箇所の修正を加えることを条件に出版許可を得ます。

原稿を抱えてフィレンツェに戻ったガリレオはトスカーナ大公フェルディナンド2世(下画像右)に結果を報告し、祝福を受けます。


所が・・・

突如、本の出版を申し出たフェデリコ・チェーズィが急死したという知らせが届き、「天文対話」の出版は暗礁に乗り上げます。焦った周囲の貴族はガリレオにフィレンツェで本を刊行することを勧めますが、教皇庁は「ローマで印刷し、印刷中に1ページずつの細かい修正箇所のチェックを行うということを前提に先に出版許可を出したのだから、フィレンツェで印刷するのであれば、まだ未チェックであったガリレオが持ち帰った「目次」をローマに送るようにと命じます。

この困難に追い討ちをかけるかのように、1630年にフィレンツェではペストが流行します
フェルディナンド2世は、これまで前例がないほど厳しい衛生法を施行し、フィレンツェ外部からの人や物の往来を規制します。このため、「天文対話」の目次や原稿をローマに送られることが不可能となってしまいます。


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時間が経つごとに、ローマ教皇は「このトスカーナ公による異例の厳しい衛生法は、ペストの流行を抑えるためではなく、実は、ガリレオの著書の発行という偉業をフィレンツェで独り占めしようとするトスカーナ公の策略なのではないか?」と疑い始めます。

ガリレオは、自らの残り少ない寿命を考えると、原稿の出版が様々な障害により中断していることに苦しみます。そして1632年、「天文対話」がフィレンツェで出版されます。ペストの猛威もようやく落ち着いたために、早速、印刷された本がローマへと送られます。

ローマ教皇ウルバヌス8世は本の出版を喜ぶどころか、「騙された!」と激高したそうです。
この教皇の態度の変化には、勿論、ペストのためにフィレンツェで出版されたことなどが原因となっていると考えられますが、更に、「『天文対話』の登場人物の一人で教会の天動説を唱え頭の悪い人物として描写されたシンプリチオが、実はウルバヌス8世を風刺したものだ」という話をウルバヌス8世本人に吹き込んだ人物が居たそうです。

結局、このローマ教皇の態度の変化により、ガリレオは再度、異端審問会にかけられ、有罪の判決を受けます。ここで、フィレンツェのフェルディナンド2世が強い態度でガリレオを擁護しなかった裏には、妻でありとても敬虔深かったヴィットーリア・デッラ・ローヴェレが「ローマ教皇に対抗すること=キリスト教会に対抗すること」を強く拒んだからとも想像できます。フェルディナンド2世が強くガリレオを擁護した場合、フェルディナンド2世にも「異端」の疑いをかけられ、ローマ教皇の思うつぼになってしまう危険があったのでしょうね。

出版をめぐるゴタゴタ、ペストの流行、ローマ教皇とトスカーナ大公の確執などに巻き込まれたガリレオは、結局、フィレンツェで自宅謹慎となり亡くなります。カトリック教徒としてお墓に葬ることも禁止されたため、トスカーナ大公は、メディチ家のお墓があるメディチ礼拝堂でガリレオの亡骸を保存し、1737年、メディチ家が途絶える間際に、ようやくサンタクローチェ聖堂に立派な墓標を造り埋葬します。

アントネッロ曰く、「たとえローマで印刷していたとしても、教皇庁の許可は下りなかったさ。最初に許可を出したのは、検閲官が面倒くさがってちゃんと全部読んでいなかったからだよ。」と言っていますが、どうでしょうね・・・。

ガリレオのお墓は、フィレンツェのサンタクローチェ教会内にあります。

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Commented by カバン持ち at 2008-10-28 18:31 x
ローマ教皇とフィレンツェのメディチ家、様々な確執から歴史上
その犠牲になった人々も数知れず・・
フィレンツェ人とはいえライバルのバルベリーニ家出身の教皇では
もっと話が難しくなったのではないでしょうか?
さらにフェルディナンド2世の背後には母親マリア・マッダレーナが
亡くなるまで君従していたし・・
ガリレオは只、その渦に巻き込まれた犠牲者だったような気がします。
Commented by lacasamia3 at 2008-11-01 03:30
カバン持ちさん>そうなんですよね~。確かにフェルディナンド2世の時代は、ローマ教皇とトスカーナ大公の対立の時代なんですよね。どちらかというと、ローマ教皇の空回りのような感じもしますが(笑)。ガリレオはそういった対立に巻き込まれたんでしょうね。
by lacasamia3 | 2008-10-27 18:28 | フィレンツェ小話 | Comments(2)

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