最後のトスカーナ大公~ジャン・ガストーネ

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長かったメディチ家のトスカーナ大公の歴史もいよいよお終いです。
1569年のコジモ1世のトスカーナ大公戴冠を経て、続いたトスカーナ大公の168年の歴史は、7代目トスカーナ大公ジャン・ガストーネの死により幕を下ろします。
←はジャン・ガストーネの肖像。う~ん、何だかシュールな肖像画ですが、果たして本人はこれで喜んでいたんでしょうかねえ(汗)。
コジモ3世の次男として生まれたジャン・ガストーネは、兄フェルディナンドが梅毒を患ったために、跡継ぎ誕生+トスカーナ大公になることを期待されます。
父コジモ3世と、既にドイツのドュッセルドルフに嫁いでいた姉のアンナマリア・ルイーザの間で、ジャン・ガストーネにふさわしい結婚相手として、ボヘミア地方(現在のチェコ)のアンナマリア・フランチェスカ(プファルッ選帝侯子息フィリッポの未亡人)との縁談が進められます。
芸術と音楽を愛し、フィレンツェの宮廷の生活に慣れていたジャン・ガストーネにとってボヘミアの厳しい冬は長すぎたようです。新婦のアンナマリア・フランチェスカは、宮廷生活を嫌い、乗馬や狩りを好み、一日中、山歩きをしたりするアウトドア派(笑)だったそうです。
跡継ぎ誕生どころか、ジャンガストーネはとうとう、プラハへと逃げ出し、結局は1708年にフィレンツェへと帰ってきてしまいます。


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ボヘミアでの生活の中でアルコール中毒になってしまったジャンガストーネは、フィレンツェから出発した時に比べて、別人のようだったそうです。
1723年にコジモ3世が亡くなり、ジャン・ガストーネがトスカーナ公国を継ぎ、トスカーナ大公となります。
彼は政治を行わず、ピッティ宮の自室のベッドから動かずに酒びたりという自堕落な生活を送ります。外部の者の入室を禁じ、ベッドすら掃除をすることを禁止したそうなんですよ(きっと凄いことになっていただろうなあ・・・)。
ジャン・ガストーネがカミングアウトした同性愛者であったことで、ジャン・ガストーネの死後トスカーナ公国を誰が継承するか?とオーストリア、フランス、スペインなどのヨーロッパの主要各国が、彼の生前から議論し始めます。この場で、フィレンツェから、はたまた、イタリアの他の公国からは誰も大きな発言権を持つ者が居なかったということは、いかにイタリアの各公国がこの時代ヨーロッパ政治の中で影響力を失ってしまったかを物語っています。

ここで私が面白いなあと感じたのは・・・

コジモ1世の時代から、政治のためにヨーロッパの各国の宮廷と婚姻を結んできたわけですが、逆に言えば各国の貴族が継承権を持つことなり、公国内での跡継ぎが居なくなると、継承権を主張する他の国に支配されてしまうのですね。

ブルボン朝のスペイン王カルロス3世とハプスブルグ家のフランツ・シュテファン(マリアテレジアの夫)が継承権を巡って対立しますが、数度の会合により、結局、カルロス3世のブルボン家がナポリとシチリアを支配する代わりに、フランツ・シュテファンのハプスブルグ家がトスカーナ大公となりトスカーナ公国を支配することとなります。

ジャン・ガストーネは1737年に亡くなります。
その後すぐにオーストリアからトスカーナ大公を継承したフランツシュテファンやってきます。彼は、ジャン・ガストーネをそれまでの悪政の象徴とし、サンロレンツォのメディチ礼拝堂君主の礼拝堂内にはモニュメントを作らずに、クリプタの祭壇の脇の隠れるようなスペースに埋葬したそうです。

こうしてメディチ家出身のトスカーナ大公の歴史は終わりますが、まだ最後のメディチ、アンナマリア・ルイーザ(1716年に未亡人となりドイツからフィレンツェに戻っていました)がフィレンツェに残っています。

次回は彼女の話を・・・

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Commented by MIKA at 2009-01-11 02:32 x
歴史コースでマリア・テレジアとスペインがトスカーナ大公国の継承権を争ったのはやりましたね。覚えている。
あっれ????なんでオーストリアがトスカーナ大公を継ぐかな?と不思議に思った。
この時代のイタリアっていかに小国の固まりで力がなかったか見えてきますよね。政治の駒として結婚が使われた時代。どこかでお国騒動があると、結局ヨーロッパ中がそれに群がって国の領土拡大を図る。
すごい時代でしたよね。それにしても・・・・・メディチ家って変わった人が多かったんですね・・・・・。
Commented by dolcenori at 2009-01-11 03:32
フィレンツェの語学学校、アンナマリア・ルイーザが建てたものだったんです。そこで半年間、真面目に学生してました。
うーん、彼女の個人的な話は知らないので、是非次のお話を楽しみにしてます。

PS
今日のお昼、サーモンのクリームパスタ作りましたよ。おいしかった♪ありがとう
Commented by カバン持ち at 2009-01-11 07:10 x
Chihoさん、こんにちは♪
毎回、楽しみにしている「フィレンツェ小話」のメディチ家シリーズ、
とうとう本家筋は次回でお終いなんですね、残念!
それにしても国政の為とはいえ、あんなにお金と人脈を駆使して
他国との姻戚関係を結んできた事が、最後に裏目に出るなんて・・
あっけないですよねぇ。
次回のアンナマリア・ルイーザも楽しみにしています♪
それからChihoさん、リンクを貼ってくださってありがとうございます。
これからも、どうぞ宜しくお願いします。^^
Commented by lacasamia3 at 2009-01-12 04:20
MIKAさん>フランス王家の方がオーストリアよりも継承権が強いような気がするんだけれど、最後の代で、ドイツとの結びつきが強かったからかなあ?このジャンガストーネはかなり変わった性癖があって、ブログには書かなかったけれど、それ関係のエピソードが沢山残っているんですよ(汗)。フィレンツェ人もそういう話大好きだしなあ・・・
Commented by lacasamia3 at 2009-01-12 04:20
のりへいさん>アンナマリア・ルイーザのお陰で今のフィレンツェがあると言っても良いほどに、美術品保護に貢献した人なんですよね。おお~パスタ作ったんですね。美味しく出来て何より♪
Commented by lacasamia3 at 2009-01-12 04:20
カバン持ちさん>いよいよメディチ家もおしまいなんですよね。オーストリア人がフィレンツェにやってきたとき、最後のメディチ、アンナマリア・ルイーザはまだ健在だったから、かなり複雑な状況だったんでしょうね。アンナ・マリアルイーザはピッティ宮殿の一角に住んでいて、同じピッティ宮殿にオーストリア勢も住んで居たそうなんですよ。フクザツ・・・こちらこそ、今年もどうぞ宜しくお願いします♪
by lacasamia3 | 2009-01-10 19:20 | フィレンツェ小話 | Comments(6)

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by chiho